2009年03月03日

FC時代のゲームの見た目について

昔のゲームは見た目が価値だった、今のゲームこそ面白さが重要なのかもね

思うところがあってコメントしたりしたんだけど、
ここでいう『見た目』の定義がいまひとつよくわからないので
なんだか噛み合わない感じの議論が続く。
いい加減長いし、ちょっと整理したいのでこっちに移動。

まずちょっと視点を変えてみようと大元の記事を読み直した。

「昔のゲームは面白さ=価値だった、今のゲームは見た目だけ」論

今のゲームは見た目だけって話は
逆に昔は中身だけで見た目どうでも良かったという話ではないよね?
という辺りが気になってこの記事はしっくり来ない。

で、上の記事。
ここでポイントなのはここ。
>大雑把にまとめるとゲーセン移植モノとキャラモノの価値は
>見た目が重要だったはず。

移植モノは同意。
自分の場合はFC発売当時小学校1年生、
移植モノ、という概念がなかったので実感はないが、
移植である以上その再現度が重要なのは想像がつく。
移植モノは見た目も含め、トータルの再現度が重要だったのだろう。

問題はキャラもの。
この文脈でいくと、
『ゲーセン移植モノとキャラモノの価値は
(その他のゲームよりも)見た目が重要』
となると思うんだけど、
キャラものの見た目が他よりも重要だったという認識が僕にはない。

ここで言う『見た目』=『グラフィックのきれいさ』。

で、FC以前から比べると当時のFCはハイスペックで
グラフィックも凄かったのだ、という話。

これまた僕はFCでTVゲームデビューなので
FCのグラフィックで驚いた記憶がなく、実感がない。

しかし大元の記事と同じく、
当時のFCのグラフィックは凄かった、という話は
当時こそ見た目重視、という話にはあまり関係がない。

この流れでの『見た目重視』というのは、
グラフィックの優劣で売り上げに大きな差がでるとか、
開発側がそこにばかり注力してゲームの中身を疎かにしていたり
という話のはずで、
当時も(もしくは当時の方が)見た目重視だという話をするならば
その点に触れないと始まらないと思う。

で、ローゼンカバリーさんはキャラゲーは見た目重視だったと仰っているんだけど、
前述の通り僕にはわからない。

まず、同時期の非キャラゲーとキャラゲーの間に明確なグラフィックの差があったとはあまり思えない。
仮に差があったとしても、その差によって売れたのだとは思わない。
キャラゲーと非キャラゲーを分けるものは、『そのキャラクターである』という『設定』だと思う。

ここまではコメント欄でやりとりしてた内容とほぼ同じなんだけど、
ここからちょっと新しい話。
大前提というか、前述の通り『見た目重視』というには
『それ以外軽視』が成り立たないといけないんだけど、
それが成り立たないんじゃない?という話。

ゲームの面白さの中には『新しさ』というのが含まれていて、
昔の方が未開拓だった分、どのゲームも何かしら新しく見えるような部分があった。
クソゲーと言われるものも、それはそれで楽しめたりするものが多く、
どうやっても楽しめないようなゲームは今より少なかったと思う。
(これは個人的な意見。)

その後、ゲームの進化に伴いスペックも上がり
ゲーム性も色々と試行錯誤が繰り返されながら高度化し、
より緻密で深みのある『面白さ』を持ったようなものがたくさん生まれた。
面白さは多様化し、もしかしたらハードルも上がったんだと思う。

反面、どうやっても楽しめないような駄作も増えた。
複雑化したシステムがうまく機能しなければ苦痛になる。
昔のゲームは単純だった分、失敗作でも『面白くない』程度だが、
最近の複雑化したゲームの場合は本当に失敗すると
『苦痛』『退屈』『作業』というFC当時はあまり聞かれなかった種類の感想が出る。

さらに前述の通りハードル自体は上がっているのであるとすれば、
どうにもならないレベルの駄作率は今の方が高いと思う。
逆に今の『面白い』は当時の『面白い』よりもレベルが高いので
今の基準で面白いものをあげたらこれも今の方が確率が高いと思う。

矛盾してるようだけどそうじゃなくて、
昔の方が良くも悪くも「そこそこ」のゲームが多かったんだと思う。

で、グラフィックと同じ話がゲームの中身についても言えるんだけど、
当時はその「そこそこ」の面白さが十分面白かったという事。
新しかったし。

そして上記の流れでいうと高度化したゲームは
緻密な面白さを練り上げるのはかなり難しい作業になり、
同時にさらなる高スペック化もあって
ゲーム性を練るよりも見た目で売る方向に流れるゲームが増えた。
そしてそういうゲームが実際よく売れるという状況もあった。
結果、この時期ゲーム性とグラフィックのバランスが大きく崩れた。
ここで『最近のゲームは見た目重視』という話が盛んに言われだしたわけで。

もう一度FCの頃の話をまとめると、
グラフィックは当時としては凄かったかもしれないが、
その優劣で売り上げが大きく左右されるほどではなく、
ゲーム性が軽視されてるという傾向があるわけでもなく、
それなりにバランスが取れていたのだと思う。
つまり見た目重視ではなかったと思う。

で、さら最近はハードがハイスペック化しすぎた為に
差別化されるほどのグラフィックを用意するには金がかかりすぎるとか
WiiやDSのようにグラフィック以外でも見た目上の新しさを打ち出せる環境があったりで
また違う流れに入っている。
ゲーム性重視になったのかというとそれも違う気はしてるんだけど。
posted by ボボコフ at 13:02 | Comment(4) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2008年03月28日

「否定」に対する嫌悪感

「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味(suVeneのあれ)
「何故ですか?」という反応には大きく分けて
質問としての「何故」、否定としての「何故」の2通りがあり、
質問する側としては、
相手に誤解を与えないような配慮が必要、
という話だと読み取ったんだけど、
質問する側の話としては全くその通りだと思うし
自分自身一応ある程度気をつけてはいるつもり。

ただ、気をつけてはいるものの、
何故気をつける必要があるのか、
イマイチ理解できていない部分もある。

それは質問される側の心理に対してで、
ちょうどそれに関連するエントリも書かれていたので
僕の疑問を書いてみる。

「否定」に対する嫌悪感について(suVeneのあれ)

僕は否定に対して嫌悪感を持つという経験があまり無いため、
その理屈があまり理解できない。

suVeneさんは嫌な否定の例として
自分の価値観の一部である「感受性を否定された」と感じるから
頭ごなしの否定

嫌じゃない否定の例として
「相手の感じ方そのもの」に対する否定ではなく、
「相手の感じ方に対して、自分の感じ方との差異における否定」など
を挙げられている。

正直これを見てもピンと来ない。

感受性を否定されたと感じるものも、
結局は感受性の差異の表明なだけだと思うのだけど。

否定してきた相手の主張に対し、
「そっちこそ間違っている」と自分が認識する場合、
お互いに相手を否定しているわけで立場は同じ。
結局それはお互いの感受性なり価値観なりが
違うという事実でしかない。

全ての人が同じ価値観というのはありえないわけで、
違う価値観の人が現れたという事実に対して
嫌悪感を持つ必要はないと思う。

否定してきた相手の主張に対し、
全面的もしくは一部に納得できる場合、
自分の中に新たな価値観やら考え方が作られるわけで、
これは単純にメリットだと僕は思うし、
前述のような相手の主張に納得できない場合であっても
そういった自分と異なる考え方の人がいるという事実や
その考え方を知ることができるというのは
やはりメリットだと思う。

そして僕の場合デメリットはあまり感じない。


否定に嫌悪感を持ったり拒絶したりする人は
僕がメリットだと受け止める部分を
あまりメリットと感じないか、
それ以上にデメリットがあると感じるかの
どちらかじゃないかと仮定して
いくつか理由を考えてみる。

メリットを感じない理由
・新しい価値観や考え方に触れたい、持ちたいという意思が特にない。
・その意思がないわけではないが、
 どこの誰だかわからないような人に対しては特にない。

デメリットを感じる理由
・否定=相手の上から目線と感じる
・多くの人の目に触れる場で否定されるのは恥ずかしい
・議論とかそういうのめんどい
・何か怖い

あまり思い浮かばないけど、こういうのがあるような気はする。
デメリットの方は結構どれかが当てはまるんじゃないかと。
上から目線というのは、確かちょっと前に
「はてブって何でみんな偉そうなの?」みたいなのがあった気がするし。
議論に拒絶反応とか見かけるし。
軽い気持ちで何か書いたら
いきなり知らない人にそれは違うとか言われたら
ビビってしまう人がいるのは当然な気がするし。

ちなみにこのエントリは「否定」じゃなくて
嫌悪感を感じる人への質問と、自分なりの推測です。

あとブクマコメントにレスしていただいたのでそれについて。
エントリの前者の例は、「お前は間違っている」という意味での否定であり、差異の原因を知りたいが上の否定ではないところがポイントでした。

僕が「どっちの「何故」も説明を求めているのは同じ」と書いたのは、
否定の意味でも質問の意味でも「何故」と書く以上は
説明を求めていると思ったからで、
否定の意味で「何故」と書くのは
その間違った結論に至ったロジックを示せ、
という意味だと思うんですね。

なので「何故」と聞かれてそれが気になるのであれば、
裏の意味とかはあまり考えずに
とりあえず自分なりの根拠を示せば良いんじゃないかなというコメントでした。
「ここが間違ってるんだ」とかその先に
もっと突っ込んだ指摘がくる可能性が高いと思いますが、
否定されるのが嫌な人にとっても、
漠然と否定されるよりはある程度ポイントがはっきりした方が
少しはラクなんじゃないかなとか。
posted by ボボコフ at 13:57 | Comment(2) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2007年07月18日

人を信じるという事

「人を信じる事」に関連する記事・コメントから思う事。

はてなブックマーク - メモ - 信じる態度
2007年07月15日 azumy 心理, 人の間 ↓「裏切られることを想定した上で信じる」のは自己責任で信頼するということだと思う。万一裏切られた時、いの一番に相手が悪いとするのでなく、人を見る目がなかった自分に責任があると考えること。
2007年07月15日 NOV1975 人間 裏切られることを想定した上で信じるのって信じるって言えるのかなあ。僕は信用も信頼もしている人に裏切られたらダメージでかいよ。
NOV1975さんに同意。

ここで、ダメージの大きさや自己責任云々は
「信じる事」の「結果」の話であって「信じる事」そのものとは関係が無いので
一旦省いて考える。

「裏切られることを想定した上で信じる」というのは違和感がある。
信じるなら想定する必要が無いはず。
そんな想定が不要だと思えて初めて「信じる」事になるのだと僕は思う。
ただ逆に、「裏切りを想定する」=「信じていない」というわけでも無いとは思う。
「想定の有無」よりも「想定の必要性の有無」に関連が深いというか。

同じ記事のブクマコメントに、
2007年07月14日 Marco11 いや、怖がらないで信じた場合のリスクやデメリットを想定して対応策まで考えてあるから信じられるっていう場合が多いですよ、相手が人間の場合は。それに嘘かどうかを見抜くのは得意だし。考えを読むのも得意だし。
というのがあり、僕は
2007年07月17日 bobokov 心理, 社会, コミュニケーション 「怖がらないで信じた場合のリスクやデメリットを想定して対応策まで考えてある」これって信じてるのかな?
と書いたけどこれも同じ話。
信じるという行為は裏切られるというリスクを伴うものであって、
その対応策が万全だから信じるというのは
もはや全く信じていないようにも見える。


で、信じた結果として裏切られた時は
「人を見る目がなかった自分に責任があると考える」のは当然かと。
これはショックとか怒りとか他の感情とは関係なく。
信じたのは自分だから。


というか言いたい事は以下のエントリに書いてある事と同じ。
人を信じること(novtan別館)
「裏切るかも知れない、でも自分の判断としてはこの人は裏切らないはず」ってのが信じるってことで、裏切りを織り込むってのはどこかで「ああやっぱりね」と言い訳するための予防線なんじゃないかなあ。後者って「全面的に信じなくて良かった」と思うのとイコールだと思うんだけど。だとしたら、やっぱり信じてないんじゃないかなあ。

posted by ボボコフ at 14:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2007年07月12日

続・続・友達について

友人、友情、親友について。私の場合(深く考えないで捨てるように書く)
このエントリを読んで、また少し頭の中の整理が出来たのでまた書く。

最初に友達について書いたのは、
主に自分の中の線引きと僕の現在の友人関係について。
友達について(bolog)

次に書いたのは、
結局定義は自分で決めるもので、他人と比較したら悩むだろうね、という話。
続・友達について(bolog)

で、これらのエントリの中で、
「僕の人間関係は恵まれている」というような事を書いた。
ただちょっと煮え切らない感じの表現になっているのは、
実際自分の中で親友だと思えるような人が何人もいる、
そういう人に出会えた、という意味では恵まれていた思うけれど、
僕の価値観や今までの人付き合いの仕方の結果そうなった、
という側面もあると思っているから。

なので人から「恵まれている」とだけ言われると、
やや違和感というか、なんとなくひっかかる。
上記の話を踏まえて言われるのならば
「僕もそう思います」と素直に言えるんだけど。


友人、友情、親友について。私の場合(深く考えないで捨てるように書く)の中で、
azumyさんはご自身の友人関係について、
「言葉での殴り合い」という表現を使って説明されている。
僕のこれまでの人付き合いの仕方を説明するのに
この表現を使うといい具合になりそうな気がしたので書いてみる。

前のエントリでも触れたけど、
僕はうわべの付き合いだとか人に合わせるといった事をあまりしないで育った。
そういう人間関係をわざわざ作っていく意味がわからないし。
昔からこんな事を考えていたわけじゃないが、
小さい頃から自然とそういう人との関わり方をしていたと思う。

思ったことを全て口にするなんて事はもちろん無い(というか無理)けど、
口にするのは基本的に本音。
皆が「これはいい!」と言っていても
僕がそう思わなければ躊躇せず「俺は別にいいと思わないなぁ」とか言う。

周囲の人間に対して、親密度とか、友人かどうかとか関係無しに、
常に殴っているようなものだと思う。
別に人を傷つけようとは思ってないので大したパンチじゃないけれど、
ちょくちょくジャブを繰り出していた(いる)んだと思う。
逆に殴られるのは全然平気。
もちろん言葉なら、だけど。

そして僕は昔から、自分から友人を誘う事があまり無かった。
誘われればあまり相手関係なく遊びに行ったけど。

こうして生きて来たので、
僕に殴られるのが嫌な人、抵抗がある人は自然と疎遠になったはず。
それでも僕を誘ってくれるのは必然的に
殴られても平気な人、殴り返せる人の割合が多くなったはず。
むしろ僕を殴りたい人とかw

これを続けてきた結果が、今の僕の友人関係に繋がっている。
付き合いのある人間の数は少ないけれど、
殴り合いしようと思えばできるような人の割合は高い。

同じようなスタンスで生きてきたのに
そういう人にほとんど出会えなかった人がいるのなら、
その人より僕は恵まれていると言えると思う。
けれど違うスタンスで生きてきた人と比較をするのはかなり難しい。

そんな意識があるので、ただ「恵まれてる」と表現されると
少し違和感を感じてしまう。

いや、別にいいんだけどね。
恵まれてるんだから。
posted by ボボコフ at 16:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2007年07月10日

オタクとは

これが自分探しの旅なのだろうか。(304 Not Modified)

まなめさんのオタク論(オタク論てよくわからないけど)。

何か違和感が。
僕のイメージするオタクとは違うっぽい。
むしろこれは偽オタク(?)のイメージに近い。


友達」と同様、これも自分の中であまり定義を考えた事は無かったけど、
多分僕が漠然とイメージしているオタクとは、
自らが価値を感じるモノや事柄をひたすら一直線に愛する人
という感じかな。

オタクは皆と違うことに価値を見い出し、そうでない人(一般人)は皆と違うことを恐れる傾向にある、と。
他人と同じかどうかは問題じゃないように思う。

というかそれを気にするのは嘘だよね。
常に人と違うもの、流行から外れたものを求めるというのは、
結局主流の動きに合わせて違う方向に向いているだけであって、
流行を追いかける人と同様に流されているだけなわけで。
(もしかしたら「人と違うものオタク」というのも成立するのかもしれないけど。)

これはまなめさんがご自身で書かれているように
「何か違うと評価されたがり」な「フツーの人」じゃないかと。

そうじゃなくて、周囲は一切関係なく自分の価値観で
「これが好きなんだ!」を突き詰めていくのが、
突き詰めずにはいられないようなのが、オタクというイメージ。

オタクというのは「結果的になっている/なってしまうもの」であって、
「なろうとしてなる」のは、何か違うんじゃないかと。
要は、そこに本当に愛はあるのか、という事かな?

「人と違う」と「周囲に思われる事」に喜びを感じるという話は
「オタクか否か」という話とは実は関係無いように思う。
タグ:オタク ネタ
posted by ボボコフ at 12:03 | Comment(5) | TrackBack(2) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2007年07月06日

続・友達について

本当の友達(suVeneのあれ)
ここから始まり、僕はこのエントリを書いた。
友達について(bolog)


そこにsuVeneさんが自らブクマコメントをくれた。
なるほど。考え方はあまり似ていないけれど、屈託のない表現と、(人付き合いに関して)恵まれた人なんだなぁと感じた。おもしろかった。
まず、おもしろいと言ってくれてありがとうございますw

上のエントリ内でも書いたけどやはり僕は恵まれてるらしい。
確かにそうなんだろうと思う。

自分から人を誘わないし、
適当に周りに合わせるような言動もしないのに
約30年生きてきて親友と呼べる人が何人もいる。

恵まれてるか否か、と言ったら恵まれてるに決まってる。

だけど、それは線引きの仕方による部分もあるように思う。

あとブクマコメントには「考え方はあまり似ていないけれど」と書かれていて、
確かにそうかもしれないけど、ある意味では皆考え方は同じようにも思える。
線引きの仕方が違うだけ、というか。
(関係無いけど友達との付き合い方は多分似てると思う。僕も大人数苦手だし。)


他の関連記事や、元記事へのブクマコメントを色々読んだけれど、
やはり皆線引きの違いだけじゃないか、という気がしてきた。

本当の友達(四捨六入)
というか,勝手にそんな線引きをするもんじゃないと思う。
線を引いているのは,自分が勝手に線を引いているだけ。
これは本当にその通りだと思う。

僕自身、最初のエントリの頭で、
基本的に人それぞれ、感覚的なものだろうから定義は難しい。
と書いたんだけど、結局全ては個人の線引き次第の話だ。

他人に対して、合う合わない、好き嫌い、良い悪い等、
あれこれ自分の中で分類するのも人それぞれの線引き。
さらにその中で、どこからどこが「友達」、どこからが「親友」だ、「本当の友達」だ、と
さらに人それぞれ自分の価値観や定義で線引きをしてるんだと思う。


で、その線引きなんだけど、四捨六入さんの場合は
それで”話が合わない”とか”考え方が合わない”ってのは
あるだろう。それは価値観とかが違うだけで,友達かどうか
とかじゃない。違う考え方だということをお互い認め合えれば,
そいつはすごく大切な友達だ。
そう考えれば,どんなヤツも友達。それ以上でもそれ以下でもない。
そいつが親友かどうかというのは,自分が勝手に思い込んでいる線引き。
好きなタイプとか嫌いなタイプとか。居心地がいいタイプとか。
”本音が語れるから”とか,”こうしてくれるから”
とかじゃなくて,そうゆうタイプの違う友達なんだと思う。
ただそれだけ。
と書かれている。
これは恐らく一番極端な場所に線を引いた例なんだと思う。
嫌いな人も合わない人もみんな友達、それ以上も以下もなし、という。

じゃあ他の人はというと、多くの人は話が合わない人はちょっと・・とか嫌いなタイプは・・とかという具合だと思うけど、
そこに線を引いてるという事。

友達とは?本当の友達とは?というような話で悩むというのは、
結局他人の線引きとの比較をして悩んでるという事じゃないかと思う。

自分の友達関係というのは他の人のそれと比べてどうなのだろう?
自分に親友はいるのだろうか?
あの人は親友がいるのだろうか?
彼は僕を友達だと思っているのかな?

というように。

元記事に対するブクマコメントだと、junkMAさん、SeiSaguruさん、konu2さんらの指摘はこれに関連するように思う。
mindさんやmemoclipさんもかな?


でも上記のように、その定義・線引きは人によって全く違ったりするし、
そもそも自分の中でその線が「明確に」なってる人も少ない気がするし、
そんなものを人と比べたって答えなんて出るわけが無いように思う。

僕の場合は多分昔から、勝手な線引きで決まるような曖昧なものだと思っていたし、
別に友達がたくさん欲しいとか思ったことも無いので
あまりその部分で本気で考える事がなかったんだと思う。

人それぞれなのだから、
答えが知りたいのなら自分で明確に「ここからが友達」と線を引けばいいだけだ。
線を一番端っこに持っていって、もしくは取っ払って、
「みんな友達」というのももちろんありだ。

僕の人間関係は恵まれているみたいだけれど、
同じ人間関係でも違う線引きをする人にとっては
友達は極めて少ない、親友なんていない、という事にもなり得る。
年に1度会う程度までの友達は多くて7人くらい。
自分から連絡とる奴なんて2人くらいだ。
つらい時に助けたり助けられたり、相談したりした事なんてない。

それでも僕は親友が5人ほどいる、と思っている。
そういう所に僕が線を引いてるからだ。
それでもその枠の中に入る人に何人も出会えたのはやはり恵まれてるんだろうけど。
posted by ボボコフ at 13:06 | Comment(2) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2007年07月05日

友達について

本当の友達(suVeneのあれ)

「友達」について。

基本的に人それぞれ、感覚的なものだろうから定義は難しい。

それから友達か否か、親友か否か、というのはわかる気がするけど、
「本当の友達」というのはよくわからない。
「親友」と同義なら単に表現の違いなんだろうけど。

「友達」の枠の中に「本当の友達」と「それ以外」がいるのなら、
「それ以外」は「嘘の友達」?
「嘘の友達」と「友達以外の人」の違いは?
とか考えてしまう。

友達だと思っているのならそれは本当の友達だし、
本当の友達だと思わないのであればそれは友達じゃないのでは・・?

今思いついたけど、
友達というのは本来お互いがそう思っていて初めて成立すると思うので、
自分だけが勝手に定義しているのが友達、
相手も自分に対して同様に「友達」だと思っているのが「本当の友達」か?

とか言い出すと、相手に確認しないと友達と言えなくなるから却下。
あくまで自分の中での「友達」を考える。


自分の中ではそういう定義について本気であれこれ考えた経験はあまり無い。
友達とか親友がいなくても多分あまり寂しいと感じないし、
(実際にそうだった経験はあまり無いので微妙だけど)
人付き合いの仕方について悩んだ事も無い。
うわべの人付き合いとか基本的にしないし。

でもこの手の話は時々話題になるし、
自分にとっては誰が・・とか考える機会は時々ある。

今回は無理矢理「友達」の定義を考えてみた。

まず僕の「友達」の必須条件は、僕の知人である事。
知らない人は友達になり得ないので当然。
さらに、それなりに付き合いがある/あった事。
長い間会ってなくても友達は友達。
「それなり」とかいう表現を使う時点でまともな定義にはならないけど。

それから悪い人じゃない事。
悪い奴、嫌な奴と仲良くしたいと思わないので。
これはその人の人気とか周囲の評価とは無関係。
100%自分のものさしで。
「むかつく事ばっか言うけど悪い奴じゃない」
みたいなのは友達。
内面的な部分を見抜く目には自信がある。
思い込みだと言われれば反論はできないけど。
ちなみに、本当に「悪い奴、嫌な奴」だと思った人はそんなに多くない。

あとはもしかしたら、「まじめな話ができる人」というのも条件に入ってるかも。
いつでもふざけてる人とはあまり付き合う気にならないから。

ついでに言うと、
共感を求める場で、違った価値観の表明」に対して不快感を強く感じる人は、
多分その人自信が僕と仲良くしようとは思わないので友達になりにくいかも。
僕は違う価値観について話をするのが大好きだので。


「親友」はどうか。
自分の中では、親友も何人か(5人くらい?)いると思っている。

あえてこれも定義するならば、
上記の条件で「友達」に含まれるのは当然として、
さらに僕のものさしで「本当にいい奴」なのが「親友」。

本音は基本的に「友達」になら言えるし、
困っている時助けられた、とか、悩み事を相談、とか
そういう事をしたり、しようとしたという経験は無い。

けれど、もし僕がそれを望むならいつでもできる。
だって「それなりに付き合いがある、かつ、本当にいい奴」だから。

僕の性格上、今後も深刻な相談とかする事はないと思うけど。

僕は友達に恵まれているのかもしれない。
嫁さんはよくそう言ってる。

でも人数にすれば、普段付き合いがあるのはせいぜい5、6人程度。
普段と言っても年に2、3回飲むとかそんなもん。
親友率高し。
これを友人が読んだら
「ちょww俺もしかして親友とか思われてる?www」
とか思うかもしれんけど。

まあそんな感じです。

あ、当然嫁さんは親友の定義に当てはまるので+1人。


■関連
友だち付き合いのうまい人、下手な人
友達付き合いが疲れる?
タグ:友達 考察
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2007年03月29日

着ぐるみ

うまくいかない(fuuuuuuunの日記)

何か色々と考えたけど、
僕はこの障害に関しての知識が無いのでどうかと思って
ブックマークはしたけどコメントはしなかった。

コミュニケーションの支援(S嬢 はてな)
昨日のはてな(S嬢 はてな)
(Backlash to 1984)
で、この辺の話とか読んでまた考えたんだけど
何だかもやもやする。

障害はよくわかんないのでその辺はとりあえず意識せず書く。

* ちょうど良い具合とか加減がわからない。
* 私にとって低姿勢も横柄も、着ぐるみを着て人と接しているだけ。
* 私が一番怖いのは、着ぐるみの中が空(カラ)だと知られること
これ見て思ったのは、
これは着ぐるみの中の人が書いたんじゃないの?という事。
服は着てるかもしれないけどデカい着ぐるみは着てないのでは?と思った。
空じゃないと思うんだけど。。。

で、そもそも何で着ぐるみを着ようとするのかが僕にはわからない。

着る前提で考えればsatomiesさんやkeya1984さんの書かれてる事はわかるんだけど。

着なくていいじゃん、と。
これはもう昔から、世の中の多くの人に対して思う。

もちろん着る必要がありそうな場面も沢山あるけど。


関連
友達付き合いが疲れる?
タグ:心理 人間 考察
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2006年11月16日

自分と違う意見

自分と違う意見(まなめはうす)
自分の意見が大勢の意見と違っていたら…あなたなら不安に感じますか?
僕はこれ全然無いです。
このブログ見ればわかると思いますがw

もしかすると、自分の小さな世界の中で、人と同じなら自分も正しいと安心したいだけなんじゃないのかな。
先日「自分が無い人達」にも書いたんだけど、この傾向が強過ぎる世の中の現状は良くないと思っている。
繰り返しになるけど、いじめの原因としてもかなり大きなウェイトをしめてるんじゃないかと。

自分と同じ人なんているはずがないんだから、わたしはこう思うけどあなたはどう?と言ってみればいいんじゃないのかな。
本当は当たり前の事だと思うんだけどね。

昔から平気で「いや俺はこう思うけど?」と言う僕は、よく「自分に自信がある奴」と言われるけどそうじゃない。
自分の考えを言う事と、自信の有無とか正しいかどうかとかは関係ない。

よく飲みながら友達とお互いの考えをぶつけ合ったりするけど、最初から「どっちが正しい」とかじゃないし、「自分はこう思う」というごく当たり前な話をしてるだけ。

「自信」とか「正しい」とか関係ないから、なるほどと思えばあっさり考えが変わったりもするし。
違う発想や思考に触れるのは非常に面白い事だと思うんだけどね。
そうやって視野が広がっていくのも。

だから、ブログやってるんじゃないじゃないかしら。
僕は正にその通りだし、だからmixiがあんまり楽しめない。

自分と違う意見大歓迎。
そういうコメントが来ると嬉しい。
一方的で攻撃的で議論にならない人はちょっと困るけど。

ああ、それから自分と同じ意見ってのももちろん嬉しい。
これも当たり前。
タグ:考察
posted by ボボコフ at 02:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2006年11月02日

数学はプロセスが9割

数学はプロセスが9割(304 Not Modified)
人は、ある事柄を「理解」するときその事柄を自分が既に持っている知識に照らして何らかのマッチングを取って「解釈」するものだと思っている。
その通りだと思う。
というかこの記事で言わんとしてる事の大半には同意。
何となく自分と似た思考に感じる。

数学はプロセスが9割の学問か(煩悩是道場)
数学はプロセスが9割といえるのは、まなめさんに「2割の計算力」があるからで、私には電卓やエクセルが無ければどうする事の出来ない世界だ、という事を知っている。
これは上の記事とは違う視点での意見。

両者の視点の違いに関しては
結果が全てです(suVeneのあれ)
で指摘されている通り。

「なんか違う」のは、相手が求めているものが「プロセス」ではなく「答え」だったというだけ話だ。
そして、「数学という分野においてプロセスは大切」なだけではななく、自分(テストされる主体)にとって大切なのはプロセスだという話であり、「一番大切なのは「計算間違いしないこと」」は相手(テストする主体)にとってだ。
この記事は全体的に細かい表現をきっちり使い分けていて
全体を的確に現している。
凄いなぁ。
なんか非常に数学的な匂いのする文章。

テストの本質は「何がテストされているのかを見抜くこと」である。
この部分も同意。

ただ僕に関して言えば、小学生の頃から
「何がテストされているのか」とかどうでも良くて。
点数はどうでも良かった。

まなめさんの表現で言えば、
僕にとっては「プロセスがほぼ10割」だった。

ululunさんの表現で言えば、
「あとの2割」がダメであろうが「考えの道筋が正しければ」OKだった。

suVeneさんの表現で言えば
「自分(テストされる主体)にとって大切」な事にしか興味が無かったって事みたい。

実際計算ミスが多くて親によく叱られたけど
点数に興味が無いから結局直らなかった。
でも今になって考えても、やはり大切なのはプロセスであって。
入試とか、点数を取る必要がある時以外は結果はどうでもいいかな。

あと、suVeneさんの所のsqrtさんのコメント、
「求められているもの」を見抜けているかどうかの差は数学よりも国語に顕著に現れる感じ
というのも興味深かった。
国語で点を取る為に求められるのはまさに「その力」だと思う。


最後に一番大元の記事にも少し触れる。
答は合ってるのに×。先生どうして? 「数学で大切なのはプロセスだ。答なんてただの数字でしかない」 (痛いニュース(ノ∀`))
上記の通り、
>数学で大切なのはプロセス
というのはその通りなんだけど、
このテストにおいて事前にその点をキチンと説明してあったのかどうかは
とても重要で。
恐らくそんな説明はないだろうからこの対応はダメダメな気がするけど。

それからここでダメ出しをくらった「プロセス」なんだけど、
内容が不足してるからダメなのか、解法が違うからダメなのか。

解法が違って答えが正しい場合、
ある視点で見ればその解法にもきちんと説明ができる場合が多いと思うんだけど、
そこまで考慮してもダメだったのだろうか?

とにかくこの教師の対応には疑問が多い。
タグ:考察 学習
posted by ボボコフ at 16:34 | Comment(6) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2006年10月17日

ものを大事にする心

ものを大事にする心(日々の思い)

この頃時々考えるのだが、以前、ワンガリ・マータイ女史が世界に「もったいない」という言葉を広める運動をされているというニュースを読んだが、日本には昔から、こんな素晴らしい言葉があるにも関わらず、年々私たち自身がその言葉を忘れてしまいつつあるのではないかと思うのだ。

もったいないっていい言葉だよね。

最近2歳になったばかりの息子が
「もったいない!もったいない!」と言うようになった。

うちの息子が今使える言葉の大半は僕が嫁さんが頻繁に使う言葉だ。
全然意識していなかったのだが、我が家では(と言っても僕と嫁だけだが)
「もったいない」って言葉が飛び交ってるらしい。
単に貧乏だからって話もあるがこれはいい事だと思う。

僕は元々貧乏性というか、モノを捨てられない性格だし、
嫁も良いものを長く使おうという意識が昔から強い。

その後、世の中が不況だと言われるようになり、その影響もあってか100円ショップが台頭するようになった。私もかなりお世話になっているのだが、あれもまた、ものを大事にしないことを助長しているようにも思えるのだ。
ちょっとわかる気がする。

100円ショップ自体は大好きだが、買うものは厳選する。
僕の母親が100円ショップで息子のおもちゃを沢山買いがちなのだが、僕ら夫婦は「良いものを長く」という考えなので沢山買い与えないでくれと再三言っている。
次から次へと新しい物を与えたら、物を大切にしなくなるんじゃないかと思うし。

それでも私はいささか古い人間なので、使えるものを無駄にするのは地球に対して(う〜ん、うまく言えないが、限りある資源に対してというか、貧しい国の人に対してというか、なんかよくわからないけどそういう感じ。)申し訳ない気がしてしまうのだ。
僕も以前からモノは大切にしてきたが、こういう視点はあまり無かった。
が、嫁さんがまさにこういう考え方をする人間だったので、嫁さんから僕も学んだ。

で、本題なんだけど
ものを大事にしない人が人を大事にするだろうかと。
これは「おっ?」と思った。

TOHさんも「当てはまらないこともいっぱいあるのだとは思うが」と前置きされていて、確かにそれはそうだと思うんだけど。

なんとなく、かなり当てはまりそうな気がする。
いや、かなり当てはまる。

こういう発想は無かったな。

ますます息子にはものを大事にする心を、もったいないという言葉を、ちゃんと身につけさせないといけないなぁと思った。
posted by ボボコフ at 18:22 | Comment(8) | TrackBack(1) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2006年08月29日

ギャンブルに「流れ」はあるか、物語を作る生き物、煮つめられた人生

ギャンブルに「流れ」はあるか、物語を作る生き物、煮つめられた人生(吹風日記)
そういう意味では、ランダムな配列に「流れ」を読んでしまう、というのは、人間の一つのいとおしさではないかと、私には思われます。
まとめ方も面白いし興味深いエントリだった。

したがって、「流れ」はあるか? という質問は、つまるところ、こう聞いているのと同じです。「物語」はあるか? そんなもんあるに決まってます。我々人間にとって、世界とは、単なる事実の集積では断じてない。それは、無数の「物語」によって意味づけされて、初めて世界となるのです。
物語、あるあるw
だからギャンブルは面白い!w

でも物語や流れに最初から信じ込んだり期待したりする人は
ギャンブル向いてない(勝ち負けで考えると)と思う。
そういう人ほどハマるような気もするけどw
我々は、勝つために「流れ」を読んでいるのではなく、「物語」をつくろうとして「流れ」を読むのです。いや、あの、勝つために「流れ」を読んでいる人もいらっしゃるようですが、その、なんというか、えー、がんばってください。
元エントリもそれは前提になってる。

ギャンブラーな僕(?)が思うに、
勝ちに拘るなら終始確率を徹底的に考える必要がある。

そんな僕は時々
「そんなやり方して面白いか?」
なんて言葉をかけられたりしたが、
それとは別に物語を作ってるから面白かったんだろうなと
このエントリを読んで思った。
posted by ボボコフ at 15:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2006年07月26日

頭が良い人

「頭が良い人」のイメージ(まなめはうす)

大元の記事(というかスレ)をざっと読んだ印象は
ARTIFACT@ハテナ系さんに書かれていた
このままだと「空気を読む」と「頭が良い」が同義語になっちゃう!(笑) ここでもコミュニケーション能力話に!
これと同じだった。

「コミュニケーション能力」と「頭の良さ」は関係はあると思うが
イコールではないよね。
頭良くても良いコミュニケーションを生み出そうとしない人もいるだろうし。

「その場に応じて臨機応変に振る舞う事ができる人が頭が良い」という発想は
文字通り「できる」人は頭が良いかもしれないけど
「できる」人にもそれを「する」か「しない」かって選択肢はあるわけで
「する」か「しない」かで頭の良し悪しを判断するって発想はあまり頭が良くない気がする。

ちなみに「空気を読む能力」と「頭の良さ」は関係ないと思う。
空気読んだ上で「どう振る舞うか」って部分には頭の良さが絡むかもしれないけど。

じゃあ自分はどんな人を頭が良いと思うのかと考えたが
上手い表現が思いつかない。
高い理解力・分析力を自然と備えてる人・・これも一面を表すだけっぽい。
難しい。

ってここまでの話は本題じゃなくて、
このエントリを書いたのはまなめさんの書かれた事に思う事があったから。
ちなみに、カンタンに教えることができる人は頭良いとは思いません。分からない人を理解できるのは、かつて分からなかった人だと思うのです。ゆえに、「頭がいい人」ではなく「乗り越えた人」なのです。
僕はどちらかと言えば逆で「カンタンに教えることができる人は頭良い」と思っている。

「カンタンに教えることができる」という事は、
「かつて分からなかった」かどうかに関わらず
その問題をキチンと「理解している人」だから。
そしてもっと言えば「かつて分からなかった」というのも
単純に「頭が良い」の否定になる要素だとは思わなかったり。

全てをすんなり「理解」できるならそれは頭が良いのだろうけど、
あまり細かい疑問を持たずに何でもすんなり頭に入れて(記憶)しまう人は
単に知識を持っているだけで「理解」していなかったりする。
そういうタイプの人は「かつて分からなかった」経験が無くても
「カンタンに教えること」は難しい。

僕が「本当に頭が良い」と感じる人は
「○○です」と言われて単純に「○○なのね」と「記憶する」タイプの人ではなく、
「何故か」「本当にそうか」とかいちいち分解・分析しながら
「理解」するタイプの人に多い。
というかそういうタイプにしか感じないかも。

こういうタイプの中でも本当に頭のいい人ってのは
誰かの疑問に対して「どの段階で躓いているのか」を「理解」し
問題解決へ導く事ができたりする。
つまり「カンタンに教えることができる人」だ。

というわけで、僕はやっぱり
「簡単に説明できる人は頭のいい人」だと思う。
簡単に説明するのを見たからって必ず「この人頭良いな」と思う程単純でもないけど
どちらかと言えばそうだと思う。
posted by ボボコフ at 13:27 | Comment(6) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2006年06月26日

「会話はキャッチボール」の本当の意味

「会話はキャッチボール」の本当の意味(九尾のネコ鞭)

タイトルからイメージした内容とあまりにもかけ離れた話だったので
ビックリした。

私はこれまで、この言葉の意味を「一方的に話すな」と言う意味として捉えてきた。会話はスピーチじゃないんだから、こちらが喋った後は、相手も喋る。会話が行き交う。つまりキャッチボールなのであると。
比喩って難しいんだなとあらためて思った。

しかし、キャッチボールには目標らしい目標がない。しいて言うなら、ダラダラと続けることだけが目標である。
これは明らかに違う。。。

で、色々と思ったことを書こうと思ったんだけど
トラバ先をいくつか見てたらもう書いてる人がいた。

僕がここに書こうと思っていたのはまさにこんな感じの内容。
会話はキャッチボール(色眼鏡)

で、僕が感じた事を簡潔かつ的確に表現されてるのがこちら。
比喩の限界(blitzkriegの日記)
会話の楽しさ、奥深さ、コツなどが理解できない
キャッチボールの楽しさ、奥深さ、コツなどが理解できない
そういう方によるあまりに偏狭な結論。

これ以上自分で書くことが無いや。。
posted by ボボコフ at 02:31 | Comment(4) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2006年06月23日

「楽しいという事」から「天才と秀才の違い」

「楽しいという事」から「天才と秀才の違い」(かえるの開発工房)

この人の話は全体的に凄く面白い。
個人的にこの面白さは分裂勘違い君劇場から感じるものに近いような。
まあそんな事はどうでもいい。

楽しいとは「ネットワークが構築される時の複雑さを増す引力」のことだ。
楽しいとはネットワークの成長の力、つまり自己組織力だったのだ。さらに言えば、生命力も自己組織力だ。だから、生きるのも楽しい。食べるのも楽しいし、寝るのも楽しい。人と話すのも楽しいし、何か物を作るのも考えるのも最高に楽しい。知ることや学ぶことも、背筋がぞくぞくするほど楽しい。
これは評価の仕方の問題ではない。評価の視点の問題だ。ネットワークが繋がることを注目するのか、ネットワークが繋がらないことに注目するのかということだ。繋がる方を見れば楽しくなり、それは成長である。

ただ、注目する場所を変えてしまうとそれは、繋がらないことを強調してしまう。そして、それは、いつまでたっても成長できなくなり、繋がらないことを恐れるようになってしまう。また、できないのじゃないかという無力の学習をしてしまうためだ。
いや、すばらしい。
こんな勢いのある文章が書けるって羨ましい。

楽しいってそうじゃないだろう?と思って
該当しない楽しさをあれこれ考えたんだけど、
無理やり当てはめれば大抵当てはまる気がした。

ただここは気になる。
天才は「楽しいことを楽しくやり続ける」だからこそ、ネットワークが密になり、常人では到達できないような域に達することができる。「好きなものこそ上手なれ」とはうまくいったものだ。だいたい、天才は「天才になろうとして努力している」のではない。好きなことをやっているだけだ。
少し前に別の所で同じような文章を読んだ記憶があるんだが
どこだったか忘れた。

天才と秀才の違い。
天才と凡人の違い。

天才は努力を努力と思わず楽しんでいるだけだ、という話。

これは全然納得いかない。
というか絶対違うと思うんだけど。

誰よりも好きならば誰よりも上手になれるか、
天才は皆その分野が好きでたまらない人達か、
と考えるとやっぱり違うと思う。

自分の経験で言えば、中学高校とひたすら大好きなバスケに励んだわけだが
実力はまあ普通だった。
練習が嫌だと思った事は1度も無く、毎日嬉々として練習した。
一人で朝練や夜練もした。
「好きか」と言えば誰より好きだったと思うし実際誰よりも量こなしたはず。
でも普通だったw

好きじゃなくても、他の誰も到達できない領域に行けてしまう人はいるし
好きでも大した成果が残らない場合もある。
実際こんなもんでしょ。

やっぱり天才ってのは他の人は持っていない何かを持ってる人の事じゃないかな。
それは生まれ持ったものかもしれないし
何かのきっかけで掴んだものかも知れないけれど、
好きとか嫌いとか努力とかでは身につかない特別な何かってやっぱりあると思う。
posted by ボボコフ at 19:47 | Comment(8) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2006年06月14日

勉強とは抽象化作業である

勉強とは抽象化作業である(304 Not Modified)
私の学生時代は、数学しかできなかった少年でしたので数学を例にしますが、公式って抽象的なものじゃないですか。例えば、三角形の面積を求める公式は(底辺)×(高さ)÷2であって、この公式さえ覚えていれば、底辺と高さの値がわかった瞬間にどんな三角形でも面積が求まる素晴らしい公式です。こういった抽象的な存在である公式を覚えるのが勉強にあたると思うのです。

昔から現在に至るまで、本腰を入れて勉強した事の無い自分にとっては
あまり共感できない考え方だなぁ。

「覚える」という作業が今も昔もとにかく苦手で。
「抽象的な存在である公式を覚えるのが勉強」なのであれば
僕はほとんど勉強していない。
授業中も含めて。

とにかく暗記しなければ、という覚え方をしたのって
九九とか・・解の公式とか・・まあある事はあるんだけど、
三角形の面積の公式にしても
四角の半分だから(底辺)×(高さ)÷2なんだとか
具体的な考え方ありきで身に付けたので。

大学も理系だったくせに、
公式として覚えてるものって驚くほど少なくて。
問題を解く時はまずわかり易くするために極端な例を作って
その答えの求め方を考えて
そこで得た式を実際の問題に当てはめて解く、、、
というようなやり方が主だったんだよね。

普通の人はその式を公式として覚えてるんだけど
僕はとにかくそういうの覚えられなかったから
具体的な考え方だけ身に付けて対応していた。

今、打率の求め方は?と言われても
10打数3安打で3割、これはこう計算すれば出るんだから・・
という感じで考えないと答えられないし。

元記事の考え方で言うと、僕にとっての学習は
「問題を解くために使う、抽象的な存在である公式を導く為の
具体的な考え方を身に付ける作業」
だったような気が。

身に付けるのは具体的な事なので、
「なるほど」と思えればすっと頭に入るんだよね。
だから高校程度までは何とか授業中心で対応できたんじゃないかなぁ。

で、プログラムの話にも触れられているけど、
僕が作るプログラムって完成した時点でほぼテスト完了してるようなものが多い。
単純なコーディングのミスは多々あるんだけどw
ロジックの問題はコード作成中にほとんど潰しちゃうから。
だから人より完成に時間がかかる(汗
抽象的なイメージでガガッと作れないのは弱点だと思うんだけど
やはり小さい頃からの積み重ねが無いからなのかどうも苦手だ。

で、ちょっと違う話になるけど
「『こんな問題解けても将来何の役にも立たない』と思っている人は、役に立たないよ」
これは違うと思う。
というのも僕自身『こんな問題解けても将来何の役にも立たない』
と思っている人だったんだけど
案外役に立つもんだな、と思う事が多々あったので。

じゃあ「こんな問題解けても将来何の役にも立たないよ」って言葉に
なんて答えるのが適当か。
んー。。。
「意外と役立ったりする事もあるから騙されたと思って身に付けとけ」
とか言うかな。。。
何の説得力も無いなぁ。

「でも少なくとも損もしないだろ?」
とか、、、んー、もし自分が言われてたら
「将来役立たないなら今これに使う時間が既に損じゃないか」
と思うよなぁ。

息子にこんな話されるまでにはいい答えを考えておこう。
posted by ボボコフ at 15:38 | Comment(9) | TrackBack(1) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2006年06月09日

矛盾させてくれ

矛盾させてくれ(他人の脳内)
人間が変化(あるいは成長)するということは、同じものを入力しても、過去になら返したであろう出力と違う出力を返すようになることで、つまり、過去の自分との一貫性を失うことだ。

この前提っておかしいよね?

必ずしも一貫性を失うことじゃないはずだと思うけど。
というかそうじゃない事だってざらにあると思うけど。

出力が変わるのは成長かもしれないし逆かもしれない。
変わらなくてもより確固たるものになっていれば成長かもしれない。

出力が同じでも違う演算してるかもしれないしね。

一貫性を捨てなければ、自我の成長とか変化はありえない。

だったら常に自分の考えを否定していけば成長しまくり!
ってそんなバカな。
これは極端すぎか。
posted by ボボコフ at 16:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
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