2006年06月23日

「楽しいという事」から「天才と秀才の違い」

「楽しいという事」から「天才と秀才の違い」(かえるの開発工房)

この人の話は全体的に凄く面白い。
個人的にこの面白さは分裂勘違い君劇場から感じるものに近いような。
まあそんな事はどうでもいい。

楽しいとは「ネットワークが構築される時の複雑さを増す引力」のことだ。
楽しいとはネットワークの成長の力、つまり自己組織力だったのだ。さらに言えば、生命力も自己組織力だ。だから、生きるのも楽しい。食べるのも楽しいし、寝るのも楽しい。人と話すのも楽しいし、何か物を作るのも考えるのも最高に楽しい。知ることや学ぶことも、背筋がぞくぞくするほど楽しい。
これは評価の仕方の問題ではない。評価の視点の問題だ。ネットワークが繋がることを注目するのか、ネットワークが繋がらないことに注目するのかということだ。繋がる方を見れば楽しくなり、それは成長である。

ただ、注目する場所を変えてしまうとそれは、繋がらないことを強調してしまう。そして、それは、いつまでたっても成長できなくなり、繋がらないことを恐れるようになってしまう。また、できないのじゃないかという無力の学習をしてしまうためだ。
いや、すばらしい。
こんな勢いのある文章が書けるって羨ましい。

楽しいってそうじゃないだろう?と思って
該当しない楽しさをあれこれ考えたんだけど、
無理やり当てはめれば大抵当てはまる気がした。

ただここは気になる。
天才は「楽しいことを楽しくやり続ける」だからこそ、ネットワークが密になり、常人では到達できないような域に達することができる。「好きなものこそ上手なれ」とはうまくいったものだ。だいたい、天才は「天才になろうとして努力している」のではない。好きなことをやっているだけだ。
少し前に別の所で同じような文章を読んだ記憶があるんだが
どこだったか忘れた。

天才と秀才の違い。
天才と凡人の違い。

天才は努力を努力と思わず楽しんでいるだけだ、という話。

これは全然納得いかない。
というか絶対違うと思うんだけど。

誰よりも好きならば誰よりも上手になれるか、
天才は皆その分野が好きでたまらない人達か、
と考えるとやっぱり違うと思う。

自分の経験で言えば、中学高校とひたすら大好きなバスケに励んだわけだが
実力はまあ普通だった。
練習が嫌だと思った事は1度も無く、毎日嬉々として練習した。
一人で朝練や夜練もした。
「好きか」と言えば誰より好きだったと思うし実際誰よりも量こなしたはず。
でも普通だったw

好きじゃなくても、他の誰も到達できない領域に行けてしまう人はいるし
好きでも大した成果が残らない場合もある。
実際こんなもんでしょ。

やっぱり天才ってのは他の人は持っていない何かを持ってる人の事じゃないかな。
それは生まれ持ったものかもしれないし
何かのきっかけで掴んだものかも知れないけれど、
好きとか嫌いとか努力とかでは身につかない特別な何かってやっぱりあると思う。
posted by ボボコフ at 19:47 | Comment(8) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
この記事へのコメント
そのままつづけてたら天才の領域にいったって話じゃね?
>やっぱり天才ってのは他の人は持っていない何かを持ってる人の事じゃないかな。
続けられる環境くらいだと思うな
重要なのは「真剣に」「続ける」の2つだと思う

>「好きか」と言えば誰より好きだったと思うし実際誰よりも量こなしたはず。
>でも普通だったw
これについてはあえて書かないことにする
Posted by 通りすがり at 2006年09月01日 13:18
>そのままつづけてたら天才の領域にいったって話じゃね?
ないですね。

あと天才の領域ってのは努力ではまず辿り着けないと思ってます。

>重要なのは「真剣に」「続ける」の2つだと思う
元記事の方と似た考え方のようですが、
恐らく僕とは「天才」の定義そのものが違うような気がします。

>これについてはあえて書かないことにする
普通の人は「楽しいことを楽しくやり続ける」ことによっても
「常人では到達できないような域に達すること」が出来ない具体例なんですが。

元記事の定義が本当に天才ならば世の中天才だらけですよ。
Posted by ボボコフ at 2006年09月01日 13:39
面白い記事ですね。
今秀才と天才ということについて調べていて偶然このページにたどりつきました。
そうですね。
自分の意見をいわせてもらうと、私もポポコフさんの意見に賛同いたします。
なぜなら天才はやはり、天才なのです。努力して天才になろうとした時点でそれが目指しているのは秀才です。しかし、私は世の中天才だけが必要にされているのではないと思います。起業するのは天才ですが、それを成熟させるのは秀才たちです。
Posted by 名無し at 2007年07月06日 20:28
ありがとうございます。

天才はやはり特別なものがありますよね。
天才だけが必要じゃないというのもその通りだと思います。

もしそうだったら困ってしまいますしw
Posted by ボボコフ at 2007年07月07日 02:42
はじめまして気になって読んでしまいました。

自分が思うに『天才』という言葉自体の定義の問題かと。

そもそも天才というのは、誰かが他人に天才と思われることで初めて天才になれるのかと。

自分より優れている(認めている)人に対して他人が判断するときのみ『天才』というのは存在し、天才とは特別な人がなるのではなく、特別と思われる人を他人が天才というカテゴリーで区分けしているだけだと。

そして、結果として天才と呼ばれるようになった、というだけでは?

つまり、天才は呼ばれるものであって、なるものではないと自分は考えます。

まーそういった意味では、天才というのは人に認めさせることができる特別な人、とはいえるのかもしれませんが・・・

まれに自分は天才だとかいう人もいますが、他人がそう思って(認識して)いなければ、誰からも天才扱いはされません。

歴史上の天才といわれる偉人達も、所詮後の人が勝手に判断しているだけだと思います。
(当時も言われてたかもしれないが、あくまで周囲の人がそう認識していたから)
Posted by 通りすがりのムートン at 2008年03月20日 09:07
コメントありがとうございます。

天才は呼ばれるものであるというのは
確かにその通りだと思います。

が、ここで考えていたのはその先の話だと思うんですよね。
Posted by ボボコフ at 2008年04月02日 14:02
>練習が嫌だと思った事は1度も無く、毎日嬉々として練習した。
一人で朝練や夜練もした。
「好きか」と言えば誰より好きだったと思うし実際誰よりも量こなしたはず。
でも普通だったw

"好き"というのは量的な事じゃないんですよ。
それは"好き"という事の入り口でしかない。
本当に好きならば、その先を構築できるんです。
Posted by es at 2008年07月18日 05:59
好きが量的なことじゃないのはわかりますが量は入り口でもないと思いますし
その先というのは具体的にどういうことでしょうか?
Posted by ボボコフ at 2008年12月02日 15:49
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。