2007年07月25日

ノートの話

ノートの話2(Say::So?)

できない子にはもう一種類あって,「書き写す」という作業をすることしか考えていなくて,書いても全く意味を理解しないばかりでなく,記憶もできない子がいます。おそらく二つの作業を同時にできないのだろうと思います
これ僕です。
シングルタスク人間。
2つの行動を一緒にしようとすると大抵失敗したり片方忘れたりする。

小〜高校までの授業は、集中して聞くことで「理解」していた。
ノートをとると、この「理解」が完全じゃなくなる。
だからほとんど書かなかった。

「暗記」や「記憶」をする気は最初から無くて、
「理解」できるかどうかが全て。
僕はどうも暗記が苦手で、理解しないと頭に入らないっぽいので。

この辺は、勉強とは抽象化作業であるの中でも触れたけど。

ノートには二種類あります

実際に手を動かして書くことで,きいたあるいは勉強したということを覚える用
理解したことを整理,記録し,あとで読みかえす用
僕の感覚では一つ目はよくわからない。
一度書いただけで覚えられるものなの?

あとで読みかえす用の必要性は社会人になってから痛感している。
来月から新たな職場になるので、
これを機に日々の出来事をまとめて書き残すという事をやってみる予定。
なんとか習慣化させたい。

できれば自分にちょうどいいノートのとり方は小学生のうちに身につけたいものですが現状ではなかなかそうも言ってられないので誰かがどこかで「おおノートってこんなに役に立つのか!」ということを実感させてやらなければならないんだろうなぁということを思います。
こういう意識のある教師がたくさんいたら良いのだろうなぁと思う。

基本的に学校で求められているノートのとり方って
結局「黒板を丁寧に書き写す事」だったりするので。

ノートそのものが点数になるから、書けと言われるから、仕方なくノートを書く、という事をいくら繰り返したって、
「学ぶ時はノートをとる」という習慣になかなか結びつかないのは当たり前な気がする。
タグ:教育 学習 思考
posted by ボボコフ at 16:44 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2007年07月18日

人を信じるという事

「人を信じる事」に関連する記事・コメントから思う事。

はてなブックマーク - メモ - 信じる態度
2007年07月15日 azumy 心理, 人の間 ↓「裏切られることを想定した上で信じる」のは自己責任で信頼するということだと思う。万一裏切られた時、いの一番に相手が悪いとするのでなく、人を見る目がなかった自分に責任があると考えること。
2007年07月15日 NOV1975 人間 裏切られることを想定した上で信じるのって信じるって言えるのかなあ。僕は信用も信頼もしている人に裏切られたらダメージでかいよ。
NOV1975さんに同意。

ここで、ダメージの大きさや自己責任云々は
「信じる事」の「結果」の話であって「信じる事」そのものとは関係が無いので
一旦省いて考える。

「裏切られることを想定した上で信じる」というのは違和感がある。
信じるなら想定する必要が無いはず。
そんな想定が不要だと思えて初めて「信じる」事になるのだと僕は思う。
ただ逆に、「裏切りを想定する」=「信じていない」というわけでも無いとは思う。
「想定の有無」よりも「想定の必要性の有無」に関連が深いというか。

同じ記事のブクマコメントに、
2007年07月14日 Marco11 いや、怖がらないで信じた場合のリスクやデメリットを想定して対応策まで考えてあるから信じられるっていう場合が多いですよ、相手が人間の場合は。それに嘘かどうかを見抜くのは得意だし。考えを読むのも得意だし。
というのがあり、僕は
2007年07月17日 bobokov 心理, 社会, コミュニケーション 「怖がらないで信じた場合のリスクやデメリットを想定して対応策まで考えてある」これって信じてるのかな?
と書いたけどこれも同じ話。
信じるという行為は裏切られるというリスクを伴うものであって、
その対応策が万全だから信じるというのは
もはや全く信じていないようにも見える。


で、信じた結果として裏切られた時は
「人を見る目がなかった自分に責任があると考える」のは当然かと。
これはショックとか怒りとか他の感情とは関係なく。
信じたのは自分だから。


というか言いたい事は以下のエントリに書いてある事と同じ。
人を信じること(novtan別館)
「裏切るかも知れない、でも自分の判断としてはこの人は裏切らないはず」ってのが信じるってことで、裏切りを織り込むってのはどこかで「ああやっぱりね」と言い訳するための予防線なんじゃないかなあ。後者って「全面的に信じなくて良かった」と思うのとイコールだと思うんだけど。だとしたら、やっぱり信じてないんじゃないかなあ。

posted by ボボコフ at 14:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2007年07月12日

続・続・友達について

友人、友情、親友について。私の場合(深く考えないで捨てるように書く)
このエントリを読んで、また少し頭の中の整理が出来たのでまた書く。

最初に友達について書いたのは、
主に自分の中の線引きと僕の現在の友人関係について。
友達について(bolog)

次に書いたのは、
結局定義は自分で決めるもので、他人と比較したら悩むだろうね、という話。
続・友達について(bolog)

で、これらのエントリの中で、
「僕の人間関係は恵まれている」というような事を書いた。
ただちょっと煮え切らない感じの表現になっているのは、
実際自分の中で親友だと思えるような人が何人もいる、
そういう人に出会えた、という意味では恵まれていた思うけれど、
僕の価値観や今までの人付き合いの仕方の結果そうなった、
という側面もあると思っているから。

なので人から「恵まれている」とだけ言われると、
やや違和感というか、なんとなくひっかかる。
上記の話を踏まえて言われるのならば
「僕もそう思います」と素直に言えるんだけど。


友人、友情、親友について。私の場合(深く考えないで捨てるように書く)の中で、
azumyさんはご自身の友人関係について、
「言葉での殴り合い」という表現を使って説明されている。
僕のこれまでの人付き合いの仕方を説明するのに
この表現を使うといい具合になりそうな気がしたので書いてみる。

前のエントリでも触れたけど、
僕はうわべの付き合いだとか人に合わせるといった事をあまりしないで育った。
そういう人間関係をわざわざ作っていく意味がわからないし。
昔からこんな事を考えていたわけじゃないが、
小さい頃から自然とそういう人との関わり方をしていたと思う。

思ったことを全て口にするなんて事はもちろん無い(というか無理)けど、
口にするのは基本的に本音。
皆が「これはいい!」と言っていても
僕がそう思わなければ躊躇せず「俺は別にいいと思わないなぁ」とか言う。

周囲の人間に対して、親密度とか、友人かどうかとか関係無しに、
常に殴っているようなものだと思う。
別に人を傷つけようとは思ってないので大したパンチじゃないけれど、
ちょくちょくジャブを繰り出していた(いる)んだと思う。
逆に殴られるのは全然平気。
もちろん言葉なら、だけど。

そして僕は昔から、自分から友人を誘う事があまり無かった。
誘われればあまり相手関係なく遊びに行ったけど。

こうして生きて来たので、
僕に殴られるのが嫌な人、抵抗がある人は自然と疎遠になったはず。
それでも僕を誘ってくれるのは必然的に
殴られても平気な人、殴り返せる人の割合が多くなったはず。
むしろ僕を殴りたい人とかw

これを続けてきた結果が、今の僕の友人関係に繋がっている。
付き合いのある人間の数は少ないけれど、
殴り合いしようと思えばできるような人の割合は高い。

同じようなスタンスで生きてきたのに
そういう人にほとんど出会えなかった人がいるのなら、
その人より僕は恵まれていると言えると思う。
けれど違うスタンスで生きてきた人と比較をするのはかなり難しい。

そんな意識があるので、ただ「恵まれてる」と表現されると
少し違和感を感じてしまう。

いや、別にいいんだけどね。
恵まれてるんだから。
posted by ボボコフ at 16:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2007年07月10日

オタクとは

これが自分探しの旅なのだろうか。(304 Not Modified)

まなめさんのオタク論(オタク論てよくわからないけど)。

何か違和感が。
僕のイメージするオタクとは違うっぽい。
むしろこれは偽オタク(?)のイメージに近い。


友達」と同様、これも自分の中であまり定義を考えた事は無かったけど、
多分僕が漠然とイメージしているオタクとは、
自らが価値を感じるモノや事柄をひたすら一直線に愛する人
という感じかな。

オタクは皆と違うことに価値を見い出し、そうでない人(一般人)は皆と違うことを恐れる傾向にある、と。
他人と同じかどうかは問題じゃないように思う。

というかそれを気にするのは嘘だよね。
常に人と違うもの、流行から外れたものを求めるというのは、
結局主流の動きに合わせて違う方向に向いているだけであって、
流行を追いかける人と同様に流されているだけなわけで。
(もしかしたら「人と違うものオタク」というのも成立するのかもしれないけど。)

これはまなめさんがご自身で書かれているように
「何か違うと評価されたがり」な「フツーの人」じゃないかと。

そうじゃなくて、周囲は一切関係なく自分の価値観で
「これが好きなんだ!」を突き詰めていくのが、
突き詰めずにはいられないようなのが、オタクというイメージ。

オタクというのは「結果的になっている/なってしまうもの」であって、
「なろうとしてなる」のは、何か違うんじゃないかと。
要は、そこに本当に愛はあるのか、という事かな?

「人と違う」と「周囲に思われる事」に喜びを感じるという話は
「オタクか否か」という話とは実は関係無いように思う。
タグ:オタク ネタ
posted by ボボコフ at 12:03 | Comment(5) | TrackBack(2) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2007年07月06日

続・友達について

本当の友達(suVeneのあれ)
ここから始まり、僕はこのエントリを書いた。
友達について(bolog)


そこにsuVeneさんが自らブクマコメントをくれた。
なるほど。考え方はあまり似ていないけれど、屈託のない表現と、(人付き合いに関して)恵まれた人なんだなぁと感じた。おもしろかった。
まず、おもしろいと言ってくれてありがとうございますw

上のエントリ内でも書いたけどやはり僕は恵まれてるらしい。
確かにそうなんだろうと思う。

自分から人を誘わないし、
適当に周りに合わせるような言動もしないのに
約30年生きてきて親友と呼べる人が何人もいる。

恵まれてるか否か、と言ったら恵まれてるに決まってる。

だけど、それは線引きの仕方による部分もあるように思う。

あとブクマコメントには「考え方はあまり似ていないけれど」と書かれていて、
確かにそうかもしれないけど、ある意味では皆考え方は同じようにも思える。
線引きの仕方が違うだけ、というか。
(関係無いけど友達との付き合い方は多分似てると思う。僕も大人数苦手だし。)


他の関連記事や、元記事へのブクマコメントを色々読んだけれど、
やはり皆線引きの違いだけじゃないか、という気がしてきた。

本当の友達(四捨六入)
というか,勝手にそんな線引きをするもんじゃないと思う。
線を引いているのは,自分が勝手に線を引いているだけ。
これは本当にその通りだと思う。

僕自身、最初のエントリの頭で、
基本的に人それぞれ、感覚的なものだろうから定義は難しい。
と書いたんだけど、結局全ては個人の線引き次第の話だ。

他人に対して、合う合わない、好き嫌い、良い悪い等、
あれこれ自分の中で分類するのも人それぞれの線引き。
さらにその中で、どこからどこが「友達」、どこからが「親友」だ、「本当の友達」だ、と
さらに人それぞれ自分の価値観や定義で線引きをしてるんだと思う。


で、その線引きなんだけど、四捨六入さんの場合は
それで”話が合わない”とか”考え方が合わない”ってのは
あるだろう。それは価値観とかが違うだけで,友達かどうか
とかじゃない。違う考え方だということをお互い認め合えれば,
そいつはすごく大切な友達だ。
そう考えれば,どんなヤツも友達。それ以上でもそれ以下でもない。
そいつが親友かどうかというのは,自分が勝手に思い込んでいる線引き。
好きなタイプとか嫌いなタイプとか。居心地がいいタイプとか。
”本音が語れるから”とか,”こうしてくれるから”
とかじゃなくて,そうゆうタイプの違う友達なんだと思う。
ただそれだけ。
と書かれている。
これは恐らく一番極端な場所に線を引いた例なんだと思う。
嫌いな人も合わない人もみんな友達、それ以上も以下もなし、という。

じゃあ他の人はというと、多くの人は話が合わない人はちょっと・・とか嫌いなタイプは・・とかという具合だと思うけど、
そこに線を引いてるという事。

友達とは?本当の友達とは?というような話で悩むというのは、
結局他人の線引きとの比較をして悩んでるという事じゃないかと思う。

自分の友達関係というのは他の人のそれと比べてどうなのだろう?
自分に親友はいるのだろうか?
あの人は親友がいるのだろうか?
彼は僕を友達だと思っているのかな?

というように。

元記事に対するブクマコメントだと、junkMAさん、SeiSaguruさん、konu2さんらの指摘はこれに関連するように思う。
mindさんやmemoclipさんもかな?


でも上記のように、その定義・線引きは人によって全く違ったりするし、
そもそも自分の中でその線が「明確に」なってる人も少ない気がするし、
そんなものを人と比べたって答えなんて出るわけが無いように思う。

僕の場合は多分昔から、勝手な線引きで決まるような曖昧なものだと思っていたし、
別に友達がたくさん欲しいとか思ったことも無いので
あまりその部分で本気で考える事がなかったんだと思う。

人それぞれなのだから、
答えが知りたいのなら自分で明確に「ここからが友達」と線を引けばいいだけだ。
線を一番端っこに持っていって、もしくは取っ払って、
「みんな友達」というのももちろんありだ。

僕の人間関係は恵まれているみたいだけれど、
同じ人間関係でも違う線引きをする人にとっては
友達は極めて少ない、親友なんていない、という事にもなり得る。
年に1度会う程度までの友達は多くて7人くらい。
自分から連絡とる奴なんて2人くらいだ。
つらい時に助けたり助けられたり、相談したりした事なんてない。

それでも僕は親友が5人ほどいる、と思っている。
そういう所に僕が線を引いてるからだ。
それでもその枠の中に入る人に何人も出会えたのはやはり恵まれてるんだろうけど。
posted by ボボコフ at 13:06 | Comment(2) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2007年07月05日

友達について

本当の友達(suVeneのあれ)

「友達」について。

基本的に人それぞれ、感覚的なものだろうから定義は難しい。

それから友達か否か、親友か否か、というのはわかる気がするけど、
「本当の友達」というのはよくわからない。
「親友」と同義なら単に表現の違いなんだろうけど。

「友達」の枠の中に「本当の友達」と「それ以外」がいるのなら、
「それ以外」は「嘘の友達」?
「嘘の友達」と「友達以外の人」の違いは?
とか考えてしまう。

友達だと思っているのならそれは本当の友達だし、
本当の友達だと思わないのであればそれは友達じゃないのでは・・?

今思いついたけど、
友達というのは本来お互いがそう思っていて初めて成立すると思うので、
自分だけが勝手に定義しているのが友達、
相手も自分に対して同様に「友達」だと思っているのが「本当の友達」か?

とか言い出すと、相手に確認しないと友達と言えなくなるから却下。
あくまで自分の中での「友達」を考える。


自分の中ではそういう定義について本気であれこれ考えた経験はあまり無い。
友達とか親友がいなくても多分あまり寂しいと感じないし、
(実際にそうだった経験はあまり無いので微妙だけど)
人付き合いの仕方について悩んだ事も無い。
うわべの人付き合いとか基本的にしないし。

でもこの手の話は時々話題になるし、
自分にとっては誰が・・とか考える機会は時々ある。

今回は無理矢理「友達」の定義を考えてみた。

まず僕の「友達」の必須条件は、僕の知人である事。
知らない人は友達になり得ないので当然。
さらに、それなりに付き合いがある/あった事。
長い間会ってなくても友達は友達。
「それなり」とかいう表現を使う時点でまともな定義にはならないけど。

それから悪い人じゃない事。
悪い奴、嫌な奴と仲良くしたいと思わないので。
これはその人の人気とか周囲の評価とは無関係。
100%自分のものさしで。
「むかつく事ばっか言うけど悪い奴じゃない」
みたいなのは友達。
内面的な部分を見抜く目には自信がある。
思い込みだと言われれば反論はできないけど。
ちなみに、本当に「悪い奴、嫌な奴」だと思った人はそんなに多くない。

あとはもしかしたら、「まじめな話ができる人」というのも条件に入ってるかも。
いつでもふざけてる人とはあまり付き合う気にならないから。

ついでに言うと、
共感を求める場で、違った価値観の表明」に対して不快感を強く感じる人は、
多分その人自信が僕と仲良くしようとは思わないので友達になりにくいかも。
僕は違う価値観について話をするのが大好きだので。


「親友」はどうか。
自分の中では、親友も何人か(5人くらい?)いると思っている。

あえてこれも定義するならば、
上記の条件で「友達」に含まれるのは当然として、
さらに僕のものさしで「本当にいい奴」なのが「親友」。

本音は基本的に「友達」になら言えるし、
困っている時助けられた、とか、悩み事を相談、とか
そういう事をしたり、しようとしたという経験は無い。

けれど、もし僕がそれを望むならいつでもできる。
だって「それなりに付き合いがある、かつ、本当にいい奴」だから。

僕の性格上、今後も深刻な相談とかする事はないと思うけど。

僕は友達に恵まれているのかもしれない。
嫁さんはよくそう言ってる。

でも人数にすれば、普段付き合いがあるのはせいぜい5、6人程度。
普段と言っても年に2、3回飲むとかそんなもん。
親友率高し。
これを友人が読んだら
「ちょww俺もしかして親友とか思われてる?www」
とか思うかもしれんけど。

まあそんな感じです。

あ、当然嫁さんは親友の定義に当てはまるので+1人。


■関連
友だち付き合いのうまい人、下手な人
友達付き合いが疲れる?
タグ:友達 考察
posted by ボボコフ at 21:16 | Comment(6) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2007年07月01日

シルバーシートについて

シルバーシートに座れ(大学教員の日常・非日常)

これを読んだ。
コメント、ブクマコメントまで含めて。

人にものを教える側の人間がこんな話をして、
しかも「自分賢い」みたいなのはどうかと。
しかもコメントの大半がそれに賛同とかビックリ。

いや、
一つの考え方としてありかな?とは思うし、
個人が勝手にそうしてるならまだいいけど。

「優先席が必要な人の為に、
自分はその席をキープしておいてあげてるんです」
みたいな、何か立派な感じに書いてある。。

おかしいと思う部分はいくつもあるんだけど、
一番問題だと思うのは
そもそも優先席と普通の席を分けて考えている事。

優先席はなぜ譲るのか。
優先席だから?

普通の席で同じ状況だったらどうするのか。


こんな事を書くと、
「優先席が必要な人は優先席に来る可能性が高いから
自分はそこをキープする」
みたいな話になるのかもしれないけど。
(というか読み直したらそう書いてあったw)

実際優先席が無駄に空いている事は多いし、
譲らない人が座っている場面もよく目にする。
僕も空いてるなら誰かが座ってもいいと思うし、
必要な時に必要な人に譲ればいいと思う。
そういう意味ではこの理屈が完全に滅茶苦茶だとは思わない。

でもそれはまず「全ての座席に対して」であるべきだと思う。
これはもう日本の場合は
全席優先席にするしか無いのかもしれないけど。
残念ながら。


ここからはオマケ。
このロジックに対する細かい疑問点。

・学生達がシルバーシートに座らないのは、本当に
 >A)シルバーシートを必要としている人
 に座ってもらう為なのか。

「必要としない人がシルバーシートに座るのは
マナー違反だ、という空気があるから座らない」
という人は結構いるんじゃないかと。

そういう人にとっては
自分が座らなかった優先席に誰が座ろうと
あまり問題じゃない気がする。
元気モリモリっぽい学生が堂々と座ったら
そりゃあウザイとか思うだろうけど。
大事なのは自分が座らない事なわけで。

このタイプの人にこのロジックで座れと言っても
場の空気が変わらない限り座れないような気がする。
もしかしたらこのロジックを聞いて感動して
「だから堂々と座るぜ、俺カッコイイ」
みたいな方向に行くかもしれない?けど。

他にも、譲る勇気が無いから最初から座らない、
という人も当然いるはず。
それは単に声をかけるのが苦手だったり、
譲るべき人の判断が難しいという理由もあるだろうし
とにかくそれだったら座らなくていいや、という判断。

そういう人にわざわざ
「座れ、そして譲れ」
という必要は全く無いように思う。


・自分から「譲ってもらいたい」という意思を
 示せない人は無視か

優先されても良いような人でも、
自分からそれをアピールできない・しない人は
沢山いると思う。
優先席の近くに行く、という行為も含めて。

優先席であっても無くてもいいけれど、
最初から席が空いていれば
そういう人でも座れるかもしれない。

このすばらしいロジックには
その視点が含まれていないのでは?


・そもそも誰もが座りたいわけじゃないのに
 「座れ」というのはどうか?

まあこれは屁理屈といえば屁理屈w
でも「誰もが座りたい」という前提な
すばらしいロジック、というのは少しひっかかる。

というか、現状優先席に座れない人、
理由はどうであれ、実際座っていないわけで、
それは「必 要」では無いわけで、
そういう人をわざわざ座らせる必要ないのでは。


ようは、人は皆そんな単純なロジックで
行動してるわけじゃないんだから
こんなロジックを
あまりすばらしいもののように
語るべきでは無いと思うわけです。

あえて言うならば、
「(優先席とか関係なく)座りたいなら座っても良い、
自分よりその席が必要と思われる人がいたら譲れ」
でいいような気がする。


■関連
みんな壊れてる
タグ:社会 思考
posted by ボボコフ at 03:16 | Comment(6) | TrackBack(1) | 社会 | このエントリーを含むはてなブックマーク
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