2006年11月16日

自分と違う意見

自分と違う意見(まなめはうす)
自分の意見が大勢の意見と違っていたら…あなたなら不安に感じますか?
僕はこれ全然無いです。
このブログ見ればわかると思いますがw

もしかすると、自分の小さな世界の中で、人と同じなら自分も正しいと安心したいだけなんじゃないのかな。
先日「自分が無い人達」にも書いたんだけど、この傾向が強過ぎる世の中の現状は良くないと思っている。
繰り返しになるけど、いじめの原因としてもかなり大きなウェイトをしめてるんじゃないかと。

自分と同じ人なんているはずがないんだから、わたしはこう思うけどあなたはどう?と言ってみればいいんじゃないのかな。
本当は当たり前の事だと思うんだけどね。

昔から平気で「いや俺はこう思うけど?」と言う僕は、よく「自分に自信がある奴」と言われるけどそうじゃない。
自分の考えを言う事と、自信の有無とか正しいかどうかとかは関係ない。

よく飲みながら友達とお互いの考えをぶつけ合ったりするけど、最初から「どっちが正しい」とかじゃないし、「自分はこう思う」というごく当たり前な話をしてるだけ。

「自信」とか「正しい」とか関係ないから、なるほどと思えばあっさり考えが変わったりもするし。
違う発想や思考に触れるのは非常に面白い事だと思うんだけどね。
そうやって視野が広がっていくのも。

だから、ブログやってるんじゃないじゃないかしら。
僕は正にその通りだし、だからmixiがあんまり楽しめない。

自分と違う意見大歓迎。
そういうコメントが来ると嬉しい。
一方的で攻撃的で議論にならない人はちょっと困るけど。

ああ、それから自分と同じ意見ってのももちろん嬉しい。
これも当たり前。
タグ:考察
posted by ボボコフ at 02:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2006年11月10日

はてな村の人達

はてなが敬遠される3つの特徴〜つながりやすさの行き着く先
知人
「ああ、はてなか。あそこは癖があるから、やめた方がいいよ」
これは以前「はてブが愚衆化してるというけれどで書いた話と同じかな。

なるほど、「はてな」は癖があるのか。でも、ブログのコミュニティで癖のないところなんてあるのだろうか。
視点を変えればまるで見え方も違ってくるんだなあ。心の中で苦笑いしながら、黙って話を聞いていた。
というか、そういう認識が無い人がいる事に驚いた。

別の言い方をすると、遅れて参入したユーザほど、コミュニティにコミットする敷居が高くなる。
はてなのそれは恐ろしく高いと思う。
そもそも仕組み的にもそうなんだけど、なんてったって新参者が増えることによる変化を「愚衆化」と表現しているコミュニティなんだし。
コミュニティというか社会。ムラでもいいや。

Yahooやlivedoorなどに対して、なぜはてなの中ではコミュニティ論が盛んになるのだろうか。
ポイントは「はてブ」だと思う。
似た仕組みは他にもあるけど、流行ってるからね。

普通のブログに対してコメントするのって、基本的にブログの作者と直接の、1対1やりとりという面が強いと思うんだけど、はてブでガヤガヤってのはそれとは随分違う。

例えるなら、、、TV(あるブログ)を集団で見ながら、ああだこうだと感想を言う(言い合う)感じ?

それぞれのコメンテーターも時にはTV側に行くんだけど、イメージ的には
「よーし、今度は俺も放送しちゃうぞー」
村人「ガヤガヤ」
「どうだったどうだった??」
みたいな感じ。

に見える。
ちょっと極端だけど。
その位外から見ると入りにくい。
というか僕は入りたくなかったし。

「はてブの衆愚化」が語る人によって180度立ち位置が異なってくる*1のと同様、「はてなは“はてな村”である」という認識も、語る人によってはまるで着眼点が異なってくるのだろう。
*1:ある人は価値観が多様化することを「衆愚化」と呼ぶ一方で、特定のサイトの記事が集中してブックマークされることを「衆愚化」と呼ぶ人もいる。
「価値観が多様化すること」と「特定のサイトの記事が集中してブックマークされること」は一見反対の視点に感じるが、古参のはてブユーザーから見て「以前とはブックマークの傾向が変わっていく」という意味では同じだし、愚衆化と表現しているのは結局それだと思うけど。

愚衆という表現があまり好きじゃないんだけど、それを言うなら愚衆化前のはてブ(いつか知らんが)だって、外から見ればある意味愚衆だったわけで。
違う価値観の人から見ればわけのわからん集団なんだから。
タグ:はてな
posted by ボボコフ at 18:43 | Comment(1) | TrackBack(1) | はてな | このエントリーを含むはてなブックマーク

一円硬貨を拾う

一円硬貨を拾うのは損か(最終防衛ライン2)

内容はほとんど関係無いんだけど、高校時代に友人が
「一円を笑うものは、十円で十回笑える」
と言ってたのを思い出した。
タグ:ネタ
posted by ボボコフ at 15:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネタ | このエントリーを含むはてなブックマーク

自分が無い人達

2つの記事を見てたら同じ事が気になったので。

あの人キライ(S:今日の一言)
まあ、人間、誰もかれも好きなわけでもなく、嫌いな人だっているのが自然なわけで。そこで他の人間の腕を引っ張るかどうかってこと、関係するようにも思う。腕を引っ張って同意が得られて、集団になっていくことで雪だるま式にテンションがあがり、気づいたらもう止められない流れができていく。なんてこともあるんだろ。
いじめってのは多くの場合そんな感じだと思う。

誰でも多かれ少なかれ好き嫌いがあるわけで、本来なら「俺、あいつ嫌い」ってのが人それぞれあったりして、関わりを減らすなりケンカするなり好きにすればいいと思うんだけど。

問題なのはやはり「他の人間の腕を引っ張る」事にあって。
「あいつ嫌い」じゃなくて「あいつウザくね?」とかやり始めるわけだ。

で、昔から周りを見ていて思う事は、「そんなに周りの目が気になるか?」って事。
何でもかんでも周りに合わせなくてもいいだろと。

ちなみにこういうのって女の子の方がより顕著なイメージがあった。
「仲良しグループ」って枠組みがハッキリしてて。
あくまでイメージだけど。

結局、自分が浮くのが怖いわけで。

上の記事の表現を借りれば、「あいつ実はこっそりうんこしてるんだぜ?」とか「え!お前うんこすんの?」とか言われるのが怖いから、最初から「あいつにうんこ投げつけない?」とか言い出しちゃう感じというか。

で、逆に持ちかけられた側も浮くのが嫌だから、何となく全体の様子を窺いながら流される。
こんな流れが多いような気がする。

実際は持ちかける所でも微妙なバランス感覚を働かせながら微妙な探りあいがあったりもするんだろうけど。
(↑以前女性2人によるモロにこれな話をどこかのブログで読んだがどこだか忘れた)

それぞれ勝手に、もしくは気の合う奴とこっそりうんこしとけば問題無いのに。


劣等感を与えることも教育の一つだと思う(ekken♂)
成績順を発表しない理由が「劣等感を与えないため」というのが事実なのだとしたら、勉強は出来るけど運動能力に劣る子供は劣等感を覚える事は多いのに、優越感を得る機会を失われているのがどうにも納得できない。
劣等感も優越感もいいんだけど、そんなに周囲の人と比べたがる気持ちが僕には理解できない。

人と比べなくても「苦手だからやらねば」とか「ここ得意だ」って意識を持たせる事はいくらでもできると思うけど。
人との比較でしかそれを感じられないならばそここそが問題なんじゃないかと。

ちなみにこの「成績を発表すべきか」という問題に関しても、僕は別にしなくていいじゃん、と思う。
興味があるなら周囲の人間に聞けば?
ていうか成績見ればある程度把握できるでしょ?
必要なら教師とかがそれとなくわからせればいいのでは?

そもそも発表する事によってどれだけ効果があるかも怪しい。
「発表されるから」モチベーションが上がる人もいるだろうけど、下がる人もいるだろうし。


二つの記事から共通して思ったのは、「周囲の目」や「自分の立ち位置」ばかり気にする風潮を無くす努力をもっとすべきなんじゃないかという事。


ある豪華客船が航海の最中に沈みだした。船長は速やかに船から脱出して海に飛び込むように指示をするために外国人客達にこういった。

アメリカ人には「飛び込めばあなたは英雄ですよ!」

イギリス人には「飛び込こめばあなたは紳士ですよ!」

ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則となっています!」

イタリア人には「飛び込むと女性にもてますよ!」

フランス人には「飛び込まないでください!」

日本人には「みんな飛び込んでいますよ!」
世界の日本人ジョーク集より

世界の日本人ジョーク集
posted by ボボコフ at 14:33 | Comment(5) | TrackBack(1) | 社会 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2006年11月02日

数学はプロセスが9割

数学はプロセスが9割(304 Not Modified)
人は、ある事柄を「理解」するときその事柄を自分が既に持っている知識に照らして何らかのマッチングを取って「解釈」するものだと思っている。
その通りだと思う。
というかこの記事で言わんとしてる事の大半には同意。
何となく自分と似た思考に感じる。

数学はプロセスが9割の学問か(煩悩是道場)
数学はプロセスが9割といえるのは、まなめさんに「2割の計算力」があるからで、私には電卓やエクセルが無ければどうする事の出来ない世界だ、という事を知っている。
これは上の記事とは違う視点での意見。

両者の視点の違いに関しては
結果が全てです(suVeneのあれ)
で指摘されている通り。

「なんか違う」のは、相手が求めているものが「プロセス」ではなく「答え」だったというだけ話だ。
そして、「数学という分野においてプロセスは大切」なだけではななく、自分(テストされる主体)にとって大切なのはプロセスだという話であり、「一番大切なのは「計算間違いしないこと」」は相手(テストする主体)にとってだ。
この記事は全体的に細かい表現をきっちり使い分けていて
全体を的確に現している。
凄いなぁ。
なんか非常に数学的な匂いのする文章。

テストの本質は「何がテストされているのかを見抜くこと」である。
この部分も同意。

ただ僕に関して言えば、小学生の頃から
「何がテストされているのか」とかどうでも良くて。
点数はどうでも良かった。

まなめさんの表現で言えば、
僕にとっては「プロセスがほぼ10割」だった。

ululunさんの表現で言えば、
「あとの2割」がダメであろうが「考えの道筋が正しければ」OKだった。

suVeneさんの表現で言えば
「自分(テストされる主体)にとって大切」な事にしか興味が無かったって事みたい。

実際計算ミスが多くて親によく叱られたけど
点数に興味が無いから結局直らなかった。
でも今になって考えても、やはり大切なのはプロセスであって。
入試とか、点数を取る必要がある時以外は結果はどうでもいいかな。

あと、suVeneさんの所のsqrtさんのコメント、
「求められているもの」を見抜けているかどうかの差は数学よりも国語に顕著に現れる感じ
というのも興味深かった。
国語で点を取る為に求められるのはまさに「その力」だと思う。


最後に一番大元の記事にも少し触れる。
答は合ってるのに×。先生どうして? 「数学で大切なのはプロセスだ。答なんてただの数字でしかない」 (痛いニュース(ノ∀`))
上記の通り、
>数学で大切なのはプロセス
というのはその通りなんだけど、
このテストにおいて事前にその点をキチンと説明してあったのかどうかは
とても重要で。
恐らくそんな説明はないだろうからこの対応はダメダメな気がするけど。

それからここでダメ出しをくらった「プロセス」なんだけど、
内容が不足してるからダメなのか、解法が違うからダメなのか。

解法が違って答えが正しい場合、
ある視点で見ればその解法にもきちんと説明ができる場合が多いと思うんだけど、
そこまで考慮してもダメだったのだろうか?

とにかくこの教師の対応には疑問が多い。
タグ:考察 学習
posted by ボボコフ at 16:34 | Comment(6) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
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