2009年03月03日

FC時代のゲームの見た目について

昔のゲームは見た目が価値だった、今のゲームこそ面白さが重要なのかもね

思うところがあってコメントしたりしたんだけど、
ここでいう『見た目』の定義がいまひとつよくわからないので
なんだか噛み合わない感じの議論が続く。
いい加減長いし、ちょっと整理したいのでこっちに移動。

まずちょっと視点を変えてみようと大元の記事を読み直した。

「昔のゲームは面白さ=価値だった、今のゲームは見た目だけ」論

今のゲームは見た目だけって話は
逆に昔は中身だけで見た目どうでも良かったという話ではないよね?
という辺りが気になってこの記事はしっくり来ない。

で、上の記事。
ここでポイントなのはここ。
>大雑把にまとめるとゲーセン移植モノとキャラモノの価値は
>見た目が重要だったはず。

移植モノは同意。
自分の場合はFC発売当時小学校1年生、
移植モノ、という概念がなかったので実感はないが、
移植である以上その再現度が重要なのは想像がつく。
移植モノは見た目も含め、トータルの再現度が重要だったのだろう。

問題はキャラもの。
この文脈でいくと、
『ゲーセン移植モノとキャラモノの価値は
(その他のゲームよりも)見た目が重要』
となると思うんだけど、
キャラものの見た目が他よりも重要だったという認識が僕にはない。

ここで言う『見た目』=『グラフィックのきれいさ』。

で、FC以前から比べると当時のFCはハイスペックで
グラフィックも凄かったのだ、という話。

これまた僕はFCでTVゲームデビューなので
FCのグラフィックで驚いた記憶がなく、実感がない。

しかし大元の記事と同じく、
当時のFCのグラフィックは凄かった、という話は
当時こそ見た目重視、という話にはあまり関係がない。

この流れでの『見た目重視』というのは、
グラフィックの優劣で売り上げに大きな差がでるとか、
開発側がそこにばかり注力してゲームの中身を疎かにしていたり
という話のはずで、
当時も(もしくは当時の方が)見た目重視だという話をするならば
その点に触れないと始まらないと思う。

で、ローゼンカバリーさんはキャラゲーは見た目重視だったと仰っているんだけど、
前述の通り僕にはわからない。

まず、同時期の非キャラゲーとキャラゲーの間に明確なグラフィックの差があったとはあまり思えない。
仮に差があったとしても、その差によって売れたのだとは思わない。
キャラゲーと非キャラゲーを分けるものは、『そのキャラクターである』という『設定』だと思う。

ここまではコメント欄でやりとりしてた内容とほぼ同じなんだけど、
ここからちょっと新しい話。
大前提というか、前述の通り『見た目重視』というには
『それ以外軽視』が成り立たないといけないんだけど、
それが成り立たないんじゃない?という話。

ゲームの面白さの中には『新しさ』というのが含まれていて、
昔の方が未開拓だった分、どのゲームも何かしら新しく見えるような部分があった。
クソゲーと言われるものも、それはそれで楽しめたりするものが多く、
どうやっても楽しめないようなゲームは今より少なかったと思う。
(これは個人的な意見。)

その後、ゲームの進化に伴いスペックも上がり
ゲーム性も色々と試行錯誤が繰り返されながら高度化し、
より緻密で深みのある『面白さ』を持ったようなものがたくさん生まれた。
面白さは多様化し、もしかしたらハードルも上がったんだと思う。

反面、どうやっても楽しめないような駄作も増えた。
複雑化したシステムがうまく機能しなければ苦痛になる。
昔のゲームは単純だった分、失敗作でも『面白くない』程度だが、
最近の複雑化したゲームの場合は本当に失敗すると
『苦痛』『退屈』『作業』というFC当時はあまり聞かれなかった種類の感想が出る。

さらに前述の通りハードル自体は上がっているのであるとすれば、
どうにもならないレベルの駄作率は今の方が高いと思う。
逆に今の『面白い』は当時の『面白い』よりもレベルが高いので
今の基準で面白いものをあげたらこれも今の方が確率が高いと思う。

矛盾してるようだけどそうじゃなくて、
昔の方が良くも悪くも「そこそこ」のゲームが多かったんだと思う。

で、グラフィックと同じ話がゲームの中身についても言えるんだけど、
当時はその「そこそこ」の面白さが十分面白かったという事。
新しかったし。

そして上記の流れでいうと高度化したゲームは
緻密な面白さを練り上げるのはかなり難しい作業になり、
同時にさらなる高スペック化もあって
ゲーム性を練るよりも見た目で売る方向に流れるゲームが増えた。
そしてそういうゲームが実際よく売れるという状況もあった。
結果、この時期ゲーム性とグラフィックのバランスが大きく崩れた。
ここで『最近のゲームは見た目重視』という話が盛んに言われだしたわけで。

もう一度FCの頃の話をまとめると、
グラフィックは当時としては凄かったかもしれないが、
その優劣で売り上げが大きく左右されるほどではなく、
ゲーム性が軽視されてるという傾向があるわけでもなく、
それなりにバランスが取れていたのだと思う。
つまり見た目重視ではなかったと思う。

で、さら最近はハードがハイスペック化しすぎた為に
差別化されるほどのグラフィックを用意するには金がかかりすぎるとか
WiiやDSのようにグラフィック以外でも見た目上の新しさを打ち出せる環境があったりで
また違う流れに入っている。
ゲーム性重視になったのかというとそれも違う気はしてるんだけど。
posted by ボボコフ at 13:02 | Comment(4) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2008年03月28日

「否定」に対する嫌悪感

「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味(suVeneのあれ)
「何故ですか?」という反応には大きく分けて
質問としての「何故」、否定としての「何故」の2通りがあり、
質問する側としては、
相手に誤解を与えないような配慮が必要、
という話だと読み取ったんだけど、
質問する側の話としては全くその通りだと思うし
自分自身一応ある程度気をつけてはいるつもり。

ただ、気をつけてはいるものの、
何故気をつける必要があるのか、
イマイチ理解できていない部分もある。

それは質問される側の心理に対してで、
ちょうどそれに関連するエントリも書かれていたので
僕の疑問を書いてみる。

「否定」に対する嫌悪感について(suVeneのあれ)

僕は否定に対して嫌悪感を持つという経験があまり無いため、
その理屈があまり理解できない。

suVeneさんは嫌な否定の例として
自分の価値観の一部である「感受性を否定された」と感じるから
頭ごなしの否定

嫌じゃない否定の例として
「相手の感じ方そのもの」に対する否定ではなく、
「相手の感じ方に対して、自分の感じ方との差異における否定」など
を挙げられている。

正直これを見てもピンと来ない。

感受性を否定されたと感じるものも、
結局は感受性の差異の表明なだけだと思うのだけど。

否定してきた相手の主張に対し、
「そっちこそ間違っている」と自分が認識する場合、
お互いに相手を否定しているわけで立場は同じ。
結局それはお互いの感受性なり価値観なりが
違うという事実でしかない。

全ての人が同じ価値観というのはありえないわけで、
違う価値観の人が現れたという事実に対して
嫌悪感を持つ必要はないと思う。

否定してきた相手の主張に対し、
全面的もしくは一部に納得できる場合、
自分の中に新たな価値観やら考え方が作られるわけで、
これは単純にメリットだと僕は思うし、
前述のような相手の主張に納得できない場合であっても
そういった自分と異なる考え方の人がいるという事実や
その考え方を知ることができるというのは
やはりメリットだと思う。

そして僕の場合デメリットはあまり感じない。


否定に嫌悪感を持ったり拒絶したりする人は
僕がメリットだと受け止める部分を
あまりメリットと感じないか、
それ以上にデメリットがあると感じるかの
どちらかじゃないかと仮定して
いくつか理由を考えてみる。

メリットを感じない理由
・新しい価値観や考え方に触れたい、持ちたいという意思が特にない。
・その意思がないわけではないが、
 どこの誰だかわからないような人に対しては特にない。

デメリットを感じる理由
・否定=相手の上から目線と感じる
・多くの人の目に触れる場で否定されるのは恥ずかしい
・議論とかそういうのめんどい
・何か怖い

あまり思い浮かばないけど、こういうのがあるような気はする。
デメリットの方は結構どれかが当てはまるんじゃないかと。
上から目線というのは、確かちょっと前に
「はてブって何でみんな偉そうなの?」みたいなのがあった気がするし。
議論に拒絶反応とか見かけるし。
軽い気持ちで何か書いたら
いきなり知らない人にそれは違うとか言われたら
ビビってしまう人がいるのは当然な気がするし。

ちなみにこのエントリは「否定」じゃなくて
嫌悪感を感じる人への質問と、自分なりの推測です。

あとブクマコメントにレスしていただいたのでそれについて。
エントリの前者の例は、「お前は間違っている」という意味での否定であり、差異の原因を知りたいが上の否定ではないところがポイントでした。

僕が「どっちの「何故」も説明を求めているのは同じ」と書いたのは、
否定の意味でも質問の意味でも「何故」と書く以上は
説明を求めていると思ったからで、
否定の意味で「何故」と書くのは
その間違った結論に至ったロジックを示せ、
という意味だと思うんですね。

なので「何故」と聞かれてそれが気になるのであれば、
裏の意味とかはあまり考えずに
とりあえず自分なりの根拠を示せば良いんじゃないかなというコメントでした。
「ここが間違ってるんだ」とかその先に
もっと突っ込んだ指摘がくる可能性が高いと思いますが、
否定されるのが嫌な人にとっても、
漠然と否定されるよりはある程度ポイントがはっきりした方が
少しはラクなんじゃないかなとか。
posted by ボボコフ at 13:57 | Comment(2) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2007年07月25日

ノートの話

ノートの話2(Say::So?)

できない子にはもう一種類あって,「書き写す」という作業をすることしか考えていなくて,書いても全く意味を理解しないばかりでなく,記憶もできない子がいます。おそらく二つの作業を同時にできないのだろうと思います
これ僕です。
シングルタスク人間。
2つの行動を一緒にしようとすると大抵失敗したり片方忘れたりする。

小〜高校までの授業は、集中して聞くことで「理解」していた。
ノートをとると、この「理解」が完全じゃなくなる。
だからほとんど書かなかった。

「暗記」や「記憶」をする気は最初から無くて、
「理解」できるかどうかが全て。
僕はどうも暗記が苦手で、理解しないと頭に入らないっぽいので。

この辺は、勉強とは抽象化作業であるの中でも触れたけど。

ノートには二種類あります

実際に手を動かして書くことで,きいたあるいは勉強したということを覚える用
理解したことを整理,記録し,あとで読みかえす用
僕の感覚では一つ目はよくわからない。
一度書いただけで覚えられるものなの?

あとで読みかえす用の必要性は社会人になってから痛感している。
来月から新たな職場になるので、
これを機に日々の出来事をまとめて書き残すという事をやってみる予定。
なんとか習慣化させたい。

できれば自分にちょうどいいノートのとり方は小学生のうちに身につけたいものですが現状ではなかなかそうも言ってられないので誰かがどこかで「おおノートってこんなに役に立つのか!」ということを実感させてやらなければならないんだろうなぁということを思います。
こういう意識のある教師がたくさんいたら良いのだろうなぁと思う。

基本的に学校で求められているノートのとり方って
結局「黒板を丁寧に書き写す事」だったりするので。

ノートそのものが点数になるから、書けと言われるから、仕方なくノートを書く、という事をいくら繰り返したって、
「学ぶ時はノートをとる」という習慣になかなか結びつかないのは当たり前な気がする。
タグ:教育 学習 思考
posted by ボボコフ at 16:44 | Comment(2) | TrackBack(0) | 教育 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2007年07月18日

人を信じるという事

「人を信じる事」に関連する記事・コメントから思う事。

はてなブックマーク - メモ - 信じる態度
2007年07月15日 azumy 心理, 人の間 ↓「裏切られることを想定した上で信じる」のは自己責任で信頼するということだと思う。万一裏切られた時、いの一番に相手が悪いとするのでなく、人を見る目がなかった自分に責任があると考えること。
2007年07月15日 NOV1975 人間 裏切られることを想定した上で信じるのって信じるって言えるのかなあ。僕は信用も信頼もしている人に裏切られたらダメージでかいよ。
NOV1975さんに同意。

ここで、ダメージの大きさや自己責任云々は
「信じる事」の「結果」の話であって「信じる事」そのものとは関係が無いので
一旦省いて考える。

「裏切られることを想定した上で信じる」というのは違和感がある。
信じるなら想定する必要が無いはず。
そんな想定が不要だと思えて初めて「信じる」事になるのだと僕は思う。
ただ逆に、「裏切りを想定する」=「信じていない」というわけでも無いとは思う。
「想定の有無」よりも「想定の必要性の有無」に関連が深いというか。

同じ記事のブクマコメントに、
2007年07月14日 Marco11 いや、怖がらないで信じた場合のリスクやデメリットを想定して対応策まで考えてあるから信じられるっていう場合が多いですよ、相手が人間の場合は。それに嘘かどうかを見抜くのは得意だし。考えを読むのも得意だし。
というのがあり、僕は
2007年07月17日 bobokov 心理, 社会, コミュニケーション 「怖がらないで信じた場合のリスクやデメリットを想定して対応策まで考えてある」これって信じてるのかな?
と書いたけどこれも同じ話。
信じるという行為は裏切られるというリスクを伴うものであって、
その対応策が万全だから信じるというのは
もはや全く信じていないようにも見える。


で、信じた結果として裏切られた時は
「人を見る目がなかった自分に責任があると考える」のは当然かと。
これはショックとか怒りとか他の感情とは関係なく。
信じたのは自分だから。


というか言いたい事は以下のエントリに書いてある事と同じ。
人を信じること(novtan別館)
「裏切るかも知れない、でも自分の判断としてはこの人は裏切らないはず」ってのが信じるってことで、裏切りを織り込むってのはどこかで「ああやっぱりね」と言い訳するための予防線なんじゃないかなあ。後者って「全面的に信じなくて良かった」と思うのとイコールだと思うんだけど。だとしたら、やっぱり信じてないんじゃないかなあ。

posted by ボボコフ at 14:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2007年07月12日

続・続・友達について

友人、友情、親友について。私の場合(深く考えないで捨てるように書く)
このエントリを読んで、また少し頭の中の整理が出来たのでまた書く。

最初に友達について書いたのは、
主に自分の中の線引きと僕の現在の友人関係について。
友達について(bolog)

次に書いたのは、
結局定義は自分で決めるもので、他人と比較したら悩むだろうね、という話。
続・友達について(bolog)

で、これらのエントリの中で、
「僕の人間関係は恵まれている」というような事を書いた。
ただちょっと煮え切らない感じの表現になっているのは、
実際自分の中で親友だと思えるような人が何人もいる、
そういう人に出会えた、という意味では恵まれていた思うけれど、
僕の価値観や今までの人付き合いの仕方の結果そうなった、
という側面もあると思っているから。

なので人から「恵まれている」とだけ言われると、
やや違和感というか、なんとなくひっかかる。
上記の話を踏まえて言われるのならば
「僕もそう思います」と素直に言えるんだけど。


友人、友情、親友について。私の場合(深く考えないで捨てるように書く)の中で、
azumyさんはご自身の友人関係について、
「言葉での殴り合い」という表現を使って説明されている。
僕のこれまでの人付き合いの仕方を説明するのに
この表現を使うといい具合になりそうな気がしたので書いてみる。

前のエントリでも触れたけど、
僕はうわべの付き合いだとか人に合わせるといった事をあまりしないで育った。
そういう人間関係をわざわざ作っていく意味がわからないし。
昔からこんな事を考えていたわけじゃないが、
小さい頃から自然とそういう人との関わり方をしていたと思う。

思ったことを全て口にするなんて事はもちろん無い(というか無理)けど、
口にするのは基本的に本音。
皆が「これはいい!」と言っていても
僕がそう思わなければ躊躇せず「俺は別にいいと思わないなぁ」とか言う。

周囲の人間に対して、親密度とか、友人かどうかとか関係無しに、
常に殴っているようなものだと思う。
別に人を傷つけようとは思ってないので大したパンチじゃないけれど、
ちょくちょくジャブを繰り出していた(いる)んだと思う。
逆に殴られるのは全然平気。
もちろん言葉なら、だけど。

そして僕は昔から、自分から友人を誘う事があまり無かった。
誘われればあまり相手関係なく遊びに行ったけど。

こうして生きて来たので、
僕に殴られるのが嫌な人、抵抗がある人は自然と疎遠になったはず。
それでも僕を誘ってくれるのは必然的に
殴られても平気な人、殴り返せる人の割合が多くなったはず。
むしろ僕を殴りたい人とかw

これを続けてきた結果が、今の僕の友人関係に繋がっている。
付き合いのある人間の数は少ないけれど、
殴り合いしようと思えばできるような人の割合は高い。

同じようなスタンスで生きてきたのに
そういう人にほとんど出会えなかった人がいるのなら、
その人より僕は恵まれていると言えると思う。
けれど違うスタンスで生きてきた人と比較をするのはかなり難しい。

そんな意識があるので、ただ「恵まれてる」と表現されると
少し違和感を感じてしまう。

いや、別にいいんだけどね。
恵まれてるんだから。
posted by ボボコフ at 16:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
2007年07月10日

オタクとは

これが自分探しの旅なのだろうか。(304 Not Modified)

まなめさんのオタク論(オタク論てよくわからないけど)。

何か違和感が。
僕のイメージするオタクとは違うっぽい。
むしろこれは偽オタク(?)のイメージに近い。


友達」と同様、これも自分の中であまり定義を考えた事は無かったけど、
多分僕が漠然とイメージしているオタクとは、
自らが価値を感じるモノや事柄をひたすら一直線に愛する人
という感じかな。

オタクは皆と違うことに価値を見い出し、そうでない人(一般人)は皆と違うことを恐れる傾向にある、と。
他人と同じかどうかは問題じゃないように思う。

というかそれを気にするのは嘘だよね。
常に人と違うもの、流行から外れたものを求めるというのは、
結局主流の動きに合わせて違う方向に向いているだけであって、
流行を追いかける人と同様に流されているだけなわけで。
(もしかしたら「人と違うものオタク」というのも成立するのかもしれないけど。)

これはまなめさんがご自身で書かれているように
「何か違うと評価されたがり」な「フツーの人」じゃないかと。

そうじゃなくて、周囲は一切関係なく自分の価値観で
「これが好きなんだ!」を突き詰めていくのが、
突き詰めずにはいられないようなのが、オタクというイメージ。

オタクというのは「結果的になっている/なってしまうもの」であって、
「なろうとしてなる」のは、何か違うんじゃないかと。
要は、そこに本当に愛はあるのか、という事かな?

「人と違う」と「周囲に思われる事」に喜びを感じるという話は
「オタクか否か」という話とは実は関係無いように思う。
タグ:オタク ネタ
posted by ボボコフ at 12:03 | Comment(5) | TrackBack(2) | 考察 | このエントリーを含むはてなブックマーク
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